おひとよしの生き方

関東の夏は厳しい。そして蒸し暑い。朝起きるとタイマーにしていたエアコンは止まっているので、不快感で起きるか携帯のアラームで起きるかの二択である。そして布団を敷きっぱなしのまま大急ぎでパンを詰め込んで着替えて外に出る。それが私の朝の日課だった。

さん、さん。」
「う……ん。」
「もう起きる時間ですよ。」

聞き慣れない声にうっすらと目を開けると目の前に男の顔があってハッとした。そうだ、この人がいたのだった。ものすごく顔が近いので、インパクトで眠気が一気に飛んで行った。

「……っつが、る…!」
「遅刻しちゃいますよ?」
「わ、わかったから…どいてくれないと起きれない…!」
「これで目が覚めたでしょう?」
「……。」

肩を押して津軽をどかせるとふっと笑ったのがわかった。絶対に顔が赤くなっているけれど、そんな事を気にしている余裕はない。朝は一分一秒でも惜しい時間帯なのだ。布団の脇で正座している津軽に私は話しかけた。

「今何時…?」
「6時半ですよ。さんが昨夜6時半に起こして欲しいと言っていたので。」
「あ…そっか…おはよう…。」
「おはようございます、さん。」

昨日の夜はご飯を食べた後、お風呂に入った。いつもならシャワーを浴びていたが、津軽がいつの間にかお風呂の用意もしてくれていて久しぶりの湯船でとても心地良く、疲れも取れた様な気分だった。ソファで寝ると言い張る津軽を制して客用の布団を出し、何時に起こせば良いのかと聞かれた所までは覚えている。疲れが取れたとは言ってもその辺りで力尽きてしまったらしく、私の隣の布団は綺麗に畳まれている。普段の状況と違うのでいつもより30分早い時間で頼んでいたのだった。

テーブルから台所に立っている津軽をぼんやりと見ていると紐で括られた袖の和服姿といい、慣れた手つきといいなんだかとても様になっていて絵になるなぁと見つめてしまっていた。そこだけ異質な空間になったような感じで、朝から仕草や目線がこう色っぽいというのはどういう事なんだろう。

「うわぁぁ…すごい美味しそう!」
さんが和食と洋食どちらが好きかわからなかったので、得意な方を作りました。」
「和食の方が好き!こういう健康的な感じが一番理想だったんだよ…はぁ…いただきます!」

まさに旅館の朝食といった感じのバランスの取れた献立だった。ご飯と味噌汁にお新香、出し巻き卵に焼き鮭、そしてほうれん草のおひたし。とてもシンプルなものなのに一つ一つの味が優しく料理人が作ったかのように美味しかった。

「こんなの作れたらいつでもお嫁に行けるね…すごいなぁ、津軽は。」
「まぁ、さんの家に嫁いだようなものですからね。」

その言葉にまた焦ってしまってぐっと喉が詰まりそうになってしまった。津軽は事務的な話ではない時に不意打ちでどきっとするような事を言ってくる。津軽にとっては冗談なだけで私が自意識過剰なだけかもしれないけれど。

「…全部食べるとは思いませんでした。」
「え、美味しかったから…いけなかったかな。」
「いえ…足りないと悪いと思って多めに作ったんですよ。」
「……普段からあんまりいいもの食べてなかったから…ははは。」

いつもは慌ただしい時間帯なのにとても穏やかな時間が流れていると思った。早く起きた事もそうだが、とても頭がスッキリとしている。私はある事を思いついて早々と身支度をして家を出る事にした。

「いってきます!」
「この時間に出るんですか?結構早いですね。」
「ううん、岸谷くんちにちょっと差し入れしようと思って。津軽の事とかお礼も言いたいし。」
「こんな時間からやってるお店があるんですか?」
「あるんだよーパン屋さんだからね!焼き立て美味しいんだ。だから連絡して迷惑じゃなかったら寄ってから仕事に行くね。」
「そうでしたか。じゃあさん、これ。」

ポン、と手に渡されたのは藍色の布に包まれたものだった。これはもしかして、と思って津軽を見ると優しい眼差しで私を見ていた。

「嫌いなものが入ってなければ良いんですが。」
「お弁当作ってくれたの?私ね、好き嫌いないのが自慢だから多分大丈夫…ありがとう…!」

お昼の楽しみが増えて私は足取りが軽くなった様な気がした。いってらっしゃいと見送る津軽を見て、完全にこれは逆転夫婦のようだなと思って一人で赤くなってしまった。





「もしもし、津軽?」
「新羅さん、おはようございます。」

津軽は携帯電話を持つかのような仕草で話しているが実際に手には何も持っていない。しかしロボットとしての機能なのかそのまま何も持たずに新羅と会話をしている。

さんがさっきパンの差し入れしてくれたよ。君の事、ありがとうって。どう?やっていけそう?」
「…はい。さんってお人よしですよね。」
「意外だね、急にそんな事言うなんて。」
さんは仕事がいくら忙しくても友達や周りの人を大事にする人なんだろうな、と。その分、自分の事は全部後回しにして力尽きてしまうというか…予想ですが、仕事でもそんな感じなのかなと。」
「まだ1日も経ってないのによくわかったね?人間よりも人間のことをわかってる。君みたいに落ち着いてて支えてあげられるような人が本当にいてくれればいいんだけどね。」
「そうですね…。」
「そっちは問題なさそうでよかったよ。臨也の方はサイケにだいぶ手こずってるみたいだけど、家事はしっかりやってるみたいだし。それじゃ、頼んだよ。」
「はい。それではまた。」







「ただいまぁ。」

夜9時を回ってから私は部屋のドアを開けた。この部屋に帰ってきてただいまという言葉を発する事になるとは思っていなかったし、いつも真っ暗のその部屋が今は明るい。

「おかえりなさい、さん。」
「はぁ……疲れた……。」
「お風呂にしますか?それともご飯にしますか?」

えっ、と靴を脱ぎかけていた私はこの流れはと思って顔を上げた。

「………。」
「……あれ?言わないの?」
「何をですか?」
「お風呂にする?ご飯にする?それともあ・た・し?って。」
「じゃあ、さんで。」
「はっ?」

言葉を発したと同時にぐいっ、と私を鞄ごとお姫様だっこするとそのまま部屋の方へと歩いて行く。しばらく何が起こったのかわからなかったが、視界に映る首筋で我に返った。間近で見る津軽が私の目を見て余裕ありげに微笑んだ。もう何を考えているのかさっぱりわからない。

「降ろし…。」
「はい。」

あっさりと寝室の方の部屋で降ろされて拍子抜けしてしまった。

「な、なんだったの?」
「足が真っ赤です。」
「足?あ…沢山歩いたからね。」
「もうちょっと足の形にあった靴を履いたほうがいいですよ。タコになるともっと痛くなりますし。」
「それで運んでくれたの?」
「昨日も気になっていたので。」

私の足を少し心配するような目で見ながら津軽は言った。優しい心遣いにじんわりと胸の辺りが熱くなってくる。津軽と話していて調子を狂わされてしまう事もあるけれど、こうしてふわふわの布団にくるまっているような、胸に何かがこみ上げてくるような感覚になるのはどうしてなんだろう。

「…ありがとう。靴、変えてみる。」
さんはちょっと生き方が不器用ですね。」
「よく言われる…それ。」
「そこが可愛いですし、ほっておけない。」

赤面するより先に驚きで目を見開いてしまった。そんな事、今まで言われた事がなかった。私の要領の悪さや、不器用さに付き合ってきた彼氏は呆れていたり、付き合っていられないと愛想を尽かして離れていった人しかいなかった。受け入れてくれる人はいなかったのに。私が戸惑っている様子に気づいたのか津軽は声を掛けてきた。

さん?」
「なんでもない…今日のごはん何かな?」
「今日は肉じゃがです。準備してきますね。」

空気を読んだのだろうか。本当にロボットらしくない、人間らしいことばかりするなと思いながら私は自分の赤くなった足を見ながら着替え始めた。




「美味しい…。」
「それは良かったです。」
「あ、そうだお弁当もすごく美味しかったよ!でもさ…職場の人にどうやって作ってるのか聞かれてごまかすのが大変だったよ。」

津軽が小さく吹き出したのを私は見逃さなかった。ネットで適当に調べて作ったから覚えていないと苦しまぎれに言ったのだが、本当に大変だったのだ。

「すごい料理できる人みたいな評価されちゃってさー…今度作り方教えてもらっていい?」
「わかりました。それから、もう少し難易度の低い料理にしますね。説明できる感じの。」
「えっそんな気遣わなくていいよ。ってあれ?難易度低いほうが作りやすいから津軽にとってはいいってこと?ん?結局どっちがいいんだろ?」

頭の中が整理できずに独り言のように呟いていると、可笑しそうに笑っている津軽と目が合った。いつもの余裕の表情から一転した笑顔に心が持って行かれそうになる。

「そ、そういえばさ。津軽ってその服で外に買い物に行ってるの?」
「いえ、これが一番落ち着くんですが、目立ってしまうので着替えて行ってますよ。」
「…どんな格好で?」
「Tシャツとジーンズです。」
「え!?」
「そんなに驚く所ですか?」
「意外すぎる…でもこの時期できる格好なんてそんなもんか…。」
「スーパーが近いのでここは便利ですね。日中に行くと主婦の方たちばかりで何か浮いてる感じもしますけど。」

平和島静雄を知る人物が見たら日中からスーパーで買い出しをしていると噂が立ってしまっているかもしれない。しかし平和島静雄はバーテン服とサングラスを常に身につけているらしいし、人間なのだからスーパーにだって行くだろう。

「それより、いいですか?」
「?」
「まぁ、匂いはしないので大丈夫だとは思うんですが。」

夕食も終わりに差し掛かろうとする時に津軽は袖の袂からキセルを取り出した。初めてみるそれに手が止まる。

「人間が吸うのと同じやつ?」
「いいえ、別物です。簡単に言うとご飯みたいなものです。けむいこともないですし、匂いもありませんので。」
「へぇ…初めて見た。」
「人間が使うものとは使い方も違いますしかなり簡略化されてます。」

ボッとどこから持ってきたのかマッチを擦って火を点けた。そして伏し目がちに吸いこんだかと思ったら、遠くの方にふーっと息を吐き出した。哀愁と色気が交り合った様な目と表情。手元や口元に目線がいってしまってドクドクと心臓の音が大きくなっていく。昨日のうちわの時もそうだったけれど、これから津軽の色気にあてられる日々が続くのだろうか。

「…お風呂入ってくる!」
「準備できてますよ。」
「あ、ありがとう。」

こういう時に何か別の事をしてごまかすなんて、浮気している夫のような気分になってしまった。別に私は夫でもないし、相手がいるわけでもないのに後ろめたい気持ちになってくる。後ろめたい、気持ち…とはなんだろう。私は正気に戻るために必死に首を振って浴室に入った。