帰りたくない、あの部屋に。でも帰らなきゃいけない。だってそこが私の部屋だから。体を休め、食事を摂り、日々の生活を営む私の部屋――そこは今まさに休息を取るのに相応しくないほどに混沌としていた。 蝉の鳴く夜 仕事で疲れている、が私の言い訳だ。もう、掃除とかやっていられない。家に着くと、仕事の帰りにコンビニで買ってきた弁当をとりあえずお腹の中に入れて、お風呂に入って寝る。そして朝起きてパンだけを詰め込んで出勤する。それが今の私の生活だ。掃除機って最後にかけたのいつだっけ?ほとんど使われていない台所は綺麗だけれど、入居した時にはりきって買ったお鍋やお皿が今は泣いているような気がする。一応二部屋あるのだけれど、ほとんど片付いていないせいで丸々一部屋分はうまく使えていないと思う。ある時、お嫁さんが欲しいと中学の時の同級生に零したら、深いため息を吐かれた。しょうがないじゃない、私のエネルギーは100パーセント近く仕事に持っていかれる。自分一人がとりあえず生きていければいいんだから。それが私のいつもの言い訳だった。 蒸し暑い日が続いていて、どこにいるのかはわからないけれど蝉の声が暑さを助長している。その日もいつものように遅い時間に仕事が終わった。営業事務の定義ってなんだろう。営業も事務もやる。にしてはほとんど営業をしている様なもので毎日足が棒になってしまうほど疲れていた。そして疲れた頭で思い出す。ああ、またあの部屋に戻るのか、と。自分の部屋が嫌いだ。いつか綺麗にしたいとは思うけれど、気力も体力もそこまで残っていない。今日もまた、あの部屋でコンビニの弁当を私は食べるのだ。と、鍵を入れて回した時に違和感を感じた。 「かかってない…。」 とうとう鍵をかけ忘れて家を出る様になってしまったらしい。幸いオートロックでマンションの住人以外は入れない様にはなっているが、不用心だし気をつけなければならない。と思いドアを開けた。 が、知らない男の人がいた。目が、合った。お互いの時間が止まった様に私は恐怖で息を呑んだ。 バタン!!と自分の部屋を出て走った。怖い怖い怖い。誰?泥棒?空き巣?いや、同じ意味か。というか和服じゃなかった?台所で洗い物してなかった?そんなわけない。見間違い?とにかくエレベーターなど待っていられなくて階段を駆け降りた。ああ、そうだ警察、警察を呼ばないとだめだ。暑さだけのせいではない汗がぶわりと吹き出てくる。なんとか携帯電話を鞄から探し出して取り出すとちょうど着信があった。知っている人からの電話だがそれどころではない。そして切ろうと思ったのに動転して応答の方のボタンを押してしまった。 「ちょっと今、今、泥棒がうちにいて警察呼ばないとだから切ります!」 「ちょちょ、ちょっと待ってさん、その人泥棒じゃないんだ!」 「えっ?何?」 「泥棒じゃなくてね、その人僕の知り合いなんだよ。」 「知り……合い。」 そこまで聞いてやっと動悸が落ち着いて足を止める事ができた。 「岸谷くん…の知り合いがなんでうちにいるの?」 「あのね、ちょっと色々あって…そろそろ着く頃だと思ったんだけど…。」 「着く?ってあの人が?」 「じゃなくて、い」 い、まで聞いた所で階段の目の前に急に現れた別の男の人と目が合った。あれ、この顔は、と思った瞬間抱き着かれて電話を落としてしまった。 「えっ!?ちょ、な、な。」 「ちょっと、何抱きついてんの?危ないだろ。」 更にその後ろから現れた人物に私の頭はもうわけがわからなくなっていた。自分に抱きついている人と全く一緒の顔をしていたから。 「ちゃん!でしょ?」 やっと体を離したと思ったらぐいっと無邪気な顔で尋ねてきた。折原臨也から悪意と毒気を全て抜き去った感じとでも言うべきだろうか。後ろにいる折原くんは私の携帯電話を拾って実に折原くんらしい口調で話し始めた。 「あぁ、新羅?悪いね遅くなっちゃって。サイケが色んな所にひょいひょい行くもんだから真っすぐ来られなくてさ。ああ、大丈夫だよ。それじゃ。」 「……あの、これどういう事なの?折原くんに双子の兄弟がいたなんて…。」 「違うから。とりあえずさんの部屋で説明するから先上がってくれない?」 「ちゃんの部屋に入れるの?」 「い、いや、ちょっと待って…私の部屋汚いからだめだって…!」 「あぁ、知ってるよその位。まぁ、大丈夫でしょ。ほら、サイケ6階まで上がって。」 「はーい。」 スキップするように先にサイケと呼ばれる人が上がっていき、その後を折原くんが上がっていった。私は瓜二つの二人に着いていく他なかった。 鍵のかかっていないドアを開けると先ほどまでの男の人は台所におらず、部屋のソファに座っているのが見えた。金髪がとても目立っていて、こちらに気づくと立ち上がって柔らかく微笑んだ。先ほどは知らない人だというだけで怖かったけれど改めてみると優しそうな落ち着いた印象の人だ。藍色の和服はとても似合っていてその人の周りの空気が穏やかに見える。そして部屋に近づくにつれて気づいていたのだが、あの混沌とした部屋が綺麗に整理されていてどこを見てもピカピカになっていて驚いていた。 「お邪魔してます、さん。すみません驚かせてしまって…。」 「えっ…あっ…いえ、もしかして掃除…とかして下さいました?」 「はい。」 「あああぁ……す、すみません…どうぞお掛け下さい…。」 あの部屋を見られてしまったのかと思うと顔から火が出るほど恥ずかしくなった。私の言葉にL字型に置かれているソファの手前にその人が座った。 「津軽とちゃんの隣がいい!」 と言うサイケに連れられて座るとどういうわけか私は全く同じ顔をした二人に挟まれる形になって奇妙な状況になった。折原くんは自分の事を棚に上げられた事を気にも留めないで津軽と呼ばれている人物を見ながら口を開いた。 「さんって、池袋にずーっといるんだよね?」 「そうだよ。中学のときに引っ越してきてからずっと。」 「平和島静雄、会ったこととか見たことないの?」 「あぁー…噂にはよく聞くけど、そういえばないかもしれない。」 「…池袋に住んでて奇跡的だよねそれは。」 私は折原くんと岸谷くんとは中学時代に同じクラスになったことがあるが、中学卒業後の進路は別だった。そして大して仲が良いわけでもなかったので連絡も取っていなかった。しかし、今から2年くらい前の仕事帰り、足が疲れ過ぎてアスファルトで盛大に転んだ私が膝から血を流していると、若干くたびれた様子の折原くんが現れたのだ。お互い随分長い間会っていなかったけれど、なんとなく覚えていた。そして帰り道とは外れてしまったが、近くにある岸谷くんの家で手当てをしてもらおうと案内してもらった。それがきっかけでそれ以来二人とはたまに会う様になっていた。在学時にはほとんど接点がなく、問題も起こしていてあまり関わらないようにしていたのだけれど、卒業してからの方が案外すんなり仲良くなれるものなんだな、と不思議に思った。後から聞いたのだが、折原くんも平和島静雄と喧嘩してしまって手当てをしてもらおうと岸谷くんの家に行く所だったらしい。 「仲悪いんだっけ。折原くん。」 「悪いなんてもんじゃないよ!ケンカはだめなんだよ!」 そう言って頬を膨らませたサイケを見て津軽は頭にポンポンと手を置いた。なんだか子どもをあやしているみたいで微笑ましい。振り向いたサイケに目を細めて微笑んだのを見て不覚にも私がどきりとしてしまった。 「それよりさぁ、折原くん双子じゃないって言ってたけどそっくりだね、いくつ離れてるの?弟さんなんでしょ?」 「兄弟じゃないんだよ、サイケは。ロボットなんだよ。」 「ロボ…ット?え、嘘でしょ?」 「僕はロボットだよーあとね、津軽も!」 和服の彼を見ながらサイケは声を上げた。津軽っていうんだ、と思うと同時にまさかという気持ちで信じられなかった。二人ともどう見ても人間にしか見えない。表情や肌の質感という外見もさることながら、口から発せらる言葉にロボット独特のカタコトな雰囲気はない。そして怒ったり相手を宥めたりするだなんて人間と同じように感情があるようにしか思えない。 「…とりあえず手短に話すと、新羅がある企業から「家政婦ロボを作るのにサンプルの人間を用意してくれ。」って頼まれてね。俺は人間にしか興味がないわけだけど、本当に人間みたいに感情もあるらしいって言われたからさ、面白そうだと思って俺のデータでテストしてもらうことにしたんだよ。」 そもそもなんで岸谷くんが頼まれた事を折原くんが請け負ってるのかとか、サンプルの人間として扱われる事に危機感はないのかとか、色々と聞きたい事があったが、とりあえず話を聞き続ける事にした。逆隣では津軽が話を遮らないようにサイケとしりとりをしている。 「それから一体だけのデータじゃ微妙だってことで家事って意外と力仕事で体力がいるだろう?じゃあシズちゃんはどう?って事で新羅が持ってたシズちゃんのデータを勝手に送ったわけ。それで俺をモデルにしたのがサイケ、シズちゃんをモデルにしたのは津軽。2体の家政婦ロボができたってわけさ。なぜかはわからないけど性格はオリジナルの方と性格が180度違うんだよね。」 「え、じゃあ平和島静雄ってそんな荒くれ者なの?」 「荒くれ者なんて久々に聞いたよ…。そんなレベルじゃないし、シズちゃんは人の話聞かないから。」 「それは臨也さんが理屈っぽいからですよ。」 「…なんかシズちゃんと同じ顔の人が冷静に話してると調子狂うな…。」 津軽はしりとりをしながら器用に話に入ってきた。平和島静雄はこんなにかっこいいのか、と私はまじまじと津軽を見てしまった。 「でもなんでうちに津軽さんがいたの?私の家が汚いって折原くんから聞いてたからでしょう。」 「いえ、違いますよ。さんが新羅さんに「お嫁さんが欲しい」って言ってたからです。」 「…あぁ、そんな事もありました…ね。」 「お嫁さんというより家事ができる人が欲しいっていう意味で言ったんじゃないかって新羅さんが言ってました。サイケは臨也さんの所で、私はさんの所で家政婦ロボとしてどれだけ利用価値があるのかを試すそうです。」 「利用価値って言い方はちょっと…。」 人間と同じように感情もあるというのに物として扱われている事に悲しくなった。そんなに淡々に言うという事は津軽自身がロボットだという自覚があるのだろう。 「まぁそういうわけだから津軽をしばらく置いてあげてよ。家事は全部できるわけだし、その方がさんは都合が良いでしょ?俺はサイケを頼まれてるから。」 「えーー僕ちゃんちのがいいー。」 「やだよ、そしたら俺が津軽と一緒に住まなくちゃならないだろ?シズちゃんと同じ顔の人と過ごすなんて考えられないね。」 「さん、よろしくお願いします。」 「えっあっす、すみません色々と。掃除とかえーと、片づけとか。」 同じ様な事しか言えず私はとにかく今朝までの部屋の状況を思い出して謝った。家政婦ロボットに家を綺麗にしてもらえるだなんて願ったり叶ったりだ。 「じゃ、俺たちは帰るから。行くよサイケ。」 「えーもうー?」 「もう寝る時間過ぎてるだろ?」 「あっ本当だ…おやすみなさい、ちゃん。津軽。」 「気をつけてね。」 満面の笑みで手を振るサイケを引っ張って、折原くんは玄関のドアを開けた。折原くんって意外と面倒見が良いんだな…と思ってガチャリとドアが閉まって私はカギを掛けた。そしてしんと音がなくなって後ろにいる津軽の方に振り返ると目の前に津軽の顔があって息が止まる。身を引くと背中に玄関のドアが当たった。 「あの…?ちょっと、近くない…ですか?」 「…敬語、やめてもらえませんか?」 「…はっ?」 「敬語。」 「え…。」 少しずつ津軽の顔が近付いてきてどんどん心臓の音が早くなる。綺麗な顔をしている、とか余計な事まで考えてしまう。なんでこんな状況になっているんだろう? 「わっ、わかりまし…わかったから、どいてっ…!」 やっとの思いで告げるとやっと近づいてくる気配がなくなって安堵した。そして余裕の笑みを浮かべ津軽は囁いた。 「よくできました。」 ぐらん、と脳を揺さぶられるような感覚の声だった。さっきまでと全然違うじゃないか。何が違うんだろう?大人しくて優しいイメージが壊れたわけじゃない。でも、表情も声のトーンもさっきまでと違う。それだけだろうか?踵を返して部屋に向かっていく津軽の後ろ姿を見て今更状況に気がついた。ロボットだとは言っていたけれど、これからこの人と二人きりで暮らしていくのだと。ドッドッと音を立て始めた心臓に落ち着いてと呼びかけても何も意味を為さない。とりあえず何か話そうと思って部屋に足を踏み入れた。 「あの、津軽さんってお風呂とかお水とか大丈夫なの?」 「さん、さんづけしないでもらえませんか?私は雇われているようなものなので落ち着かないんですが…。」 「あ、そうなんだ…。わかりま…わかった、うん。」 「水もお湯も大丈夫ですよ。入っても問題はないですけど、汗は掻かないのでお風呂も必要ありません。」 淀みなく柔らかい表情で話す津軽を見て、やっぱり先ほどの違和感は思い違いだったのだ、とホッとした。 「でも、体感温度はありますよ。暑いとか、寒いとか。今、ちょっと暑いですね。」 「あ、じゃあエアコンを…。」 「うちわでいいです。電気代かかるでしょう?」 津軽はいつの間にかサイドテーブルにあったうちわを手にして襟元を開け、目を閉じて扇ぎ始めてまたドキリと心臓が跳ねた。そして風で金色の髪がなびいていて、ハァと津軽が切なそうにため息を吐いた時に、それまでの違和感が何なのかがわかった。 目のやり場に困る様な大人の色気とはこういう事か。自分は何もしていないのに赤面してしまいそうになる。これがロボット?ロボットなんだと言い聞かせるけれど、やはりどう見ても人間でこれからやっていける自信がない。 「ご飯…食べよう。」 話題に困った事とお腹が空いていた事を思い出して私はコンビニの袋を取り出した。部屋はスッキリとしたというのに、私の心の中はずっとごちゃごちゃと色んな感情が渦巻いている。 「明日の朝からは私が作りますね。」 「…えっ、あ、そっか、掃除だけじゃないのか。ありがとう。」 「さんの為になんでもしますよ。」 ふ、と目を細めて柔らかく笑った津軽にまた息を呑んでしまった事は言うまでもない。そして、その夜から私と津軽という家政婦ロボットの生活が始まったのだった。 |