暑い。と一度感じたら頭の中がそれ以外の事を考えられなくなるような、そんな茹だるような日だった。



なぜこんな日に休日出勤しなければならなかったのだろう、と目を細めるほどの日差しに額に手を当てて影を作った。仕事のスケジュールとしては仕方がなかったが、午前で終わってしまったものは仕方がない。せっかくの休みなのだから会社で夕方まで過ごすなどという選択肢は最初からなかったので日中にも関わらず会社の外に出た。

太陽が真上に登る事を何と言うのだったっけ、暑い。理科の授業で習ったはずだったんだけどなぁ、暑い。何かを考えていても、一つ一つの間に必ず「暑い」と思わずにはいられなかった。全く頭が働かないし、思い出そうという気力がそもそもない。この環境と暑いという言葉の呪縛から何も考えられなくなり、とにかく家を目指す為に足だけを動かし、熱気を掻き分けていく。体の温度が上がっていてバケツの水を頭からかぶりたい衝動に駆られる。


東京の外れ。
というわけでもないのだが、あまり店などがない住宅地に私の住んでいるアパートがある。坂を登って、また下りて、そして足が疲れた頃に自分の家に着く。坂を目の前にした時点で、今日は無理だ。と確信した。まだ登り始めてもいないのに息が上がっていて喉がカラカラに乾いている事に気付く。ああ、何か飲みたい。と思ったけれど近くに店はないし、自販機もない。自販機?そういえばこの辺りに一つだけあったはずだ。と思い出すやいなや私は坂を登り始めていた。記憶が正しければ坂の丁度折り返し地点に一つ、自販機が立っていたはずだ。一歩一歩が重く感じるが、もう少しでひんやりとした感触を感じられるなら。キンキンに冷えた飲み物を喉に流しこめるのなら。と思えば耐えられた。あと、あと、もうちょっと。

と、自動販売機が目に入った所で先客がいる事に気がついた。暑い日だから私のような人もいるものだと思ったが、近づくにつれてその人は全く別の目的でそこに立っている事に気付いた。自動販売機の隣にはベンチがあり、バス停でもないのに自販機からベンチまで屋根がついている。私は彼を眺めながらベンチに腰を下ろした。

なぜ、このタイミングで…と思ったが目標にしていた分、通り過ぎて家に帰る気にはなれなかった。それよりも何か飲みたいという欲求のほうが勝ってしまった。



つなぎを着た長身の男性が商品を補充している。暑いのだろう、上半身のつなぎは腰で結ばれ、白いTシャツを着ているが汗で肌に貼り付いてしまっている。スポーツか何かやっている人なのだろうか。細いのに引き締まっているのが薄着なのでよくわかる。キャップから覗いている髪は金色でいかにもやんちゃそうな雰囲気だ。襟足の髪も汗で濡れていて、少し色が変わっている。
暑いのに、大変そうだな、とまじまじと見てしまっていたのだろう。彼がキャップを少し上に持ち上げ、軍手で額の汗を拭ったときに、ばちりと目が合ってしまった。よほど集中していたのか今まさに私の存在に気付いたようだった。キャップを被り直すと彼は私を見ずに作業を再開させてから口を開いた。

「………すんません。もうちょっとで終わるんで。」
「え、……あ、あぁ!ごめんなさい、焦らせるつもりはないんですけど。」

見かけから察していたような雰囲気とは全く違った落ち着いた静かな声だった。そして、私は発した言葉はたどたどしかったものの、なぜか心の中は落ち着いて、呪文のような暑いという言葉がスッと引いた。そして、衝動的にもう一度声が聞きたくなり、私は彼に向かって当たり障りのない会話を発した。

「暑いのに、大変ですね。」
「…そうっすね。……仕事なんで。しょうがないっす。」

ガシャンガシャンという缶が補充されていく音にほとんどかき消されてしまった。けれど、私は聴き心地の良い声が聞けて何となく気が済んだので、じっと見続けるのもなんだと思い、景色を眺めた。日陰から外には出たくないなぁ、と息を吐いた。こんなに暑くても、そして冬はどんなに寒くても、外にいなければならない仕事は大変だ。私は室内にいる仕事で、通勤で根を上げるのはなんだか失礼だな、と少し反省した。ピッ、ガコガコン。と先ほどとは違う音がしたので隣を見ると、自動販売機の扉が閉められており、彼は飲み物を取り出した。何か買ったのか、点検か何かだろうかと思っていると、初めて彼は私の方を向いてそれを差し出した。

「……これ。」
「…えっ?」

軍手を外した手が青いスポーツ飲料の缶を手にしている。冷えていたのだろう、沢山水滴がついていて、私が戸惑っているとぽた、と滴がアスファルトに落ちた。

「…待たせちまったんで。おごりです。」
「え、いや、いやいやそんな気を遣わないで下さい…!」
「別のやつのが良かったっすか?」
「い、いえ。そんな事は…。」
「じゃあ。」
「……ありがとうございます。」

そう言って頭を下げながら缶を受け取ると、ひんやりとした感覚が右手から伝わってきた。そして少し、本当にほんの少しだけ彼が笑って、あ、こんな優しい表情をする人だったんだ。と初めて真正面から彼を見た。

すると携帯電話が鳴り、彼は素早く取り出すと電話に出た。

「はい、平和島です。…はい、終わりました。はい…」

電話を続ける彼は道路の方を見て尚も会話を続ける。よくよく考えると業者だというのに近くに車が停まっていなかった。きっと二人、もしくは数人でここ一帯を回っているのだろう。そして、はっとして私は彼に気付かれない様に動き出した。

「はい、じゃあ次んとこですね。じゃあまた後で。」

彼が携帯を切るのを確認してから私はベンチから立ち上がった。

「…どうぞ。」
「……え、いや。」

私は渡されたものと同じ缶を彼に差し出してから引っ込めようとしなかった。彼が熱い中、嫌そうな顔もせずに黙々と仕事をしていた事が強い印象を残していたのだ。ぶつぶつと暑い暑いと心の中で繰り返していた私とは大違いで、感心とも尊敬ともいえるような感情だった。更に言えば接客業でもないのにこうして接してくれた事が嬉しかった。それでいてもたってもいられなかったのだ。

「…他のが良かったですか?」
「いや…すんません。」

同じ様な会話をして、彼がそれを受け取ると私は再びベンチに腰掛けた。そしてプルタブを開けるとプシと良い音がした。何度聞いても良い音。あ、そういえば彼の声もそうだな。と思って一口目を口にした時、隣からプシという心地良い音がした。