「やべぇタバコ切れてんだった。」
「あ、俺行ってきますよ。」
「いやいや、いーって。俺が行くべ。」

トムさんは座っていたベンチから立ち上がり、まぁ先に休憩しとけよと言って公園から出ていった。一人残された俺は夜空を見上げ、今日はあと何件だっただろうかと考えてタバコに火をつけた。この公園は仕事の合間の休憩によく立ち寄る場所で、池袋にある公園の中でも広めの敷地だ。夜の公園は人通りも少なく、街灯も明るすぎない程度の光で、回収金額だの家族構成だのをしゃべっていても人の目を気にしなくて良い場所だ。静かなので俺自身も割と気に入っていた。

ふーっと煙を吐いて公園の中央にある時計を見ると丁度9時を指していた。すると、たったったっと前から地面を蹴るような小さな音がした気がして見ると、犬がいた。尻尾を振りながら上機嫌な様子でこちらに向かって歩いてきて、俺の目の前で座って尻尾を振り続けている。自慢ではないが、俺は人間を含め動物好かれた事は人生においてゼロに等しかったので、面喰ってしまった。

「………。」
「ハッハッハッ。」

茶色の毛が風に揺れていて、頭を撫でたいと思うが、その感情とは裏腹に動けずにいた。俺が動くとどういうわけか動物の類は皆逃げていってしまう事が多いからだ。人懐っこい顔で俺を見ながら尚も尻尾を振り続けている。ふと、ふさふさした毛の間に首輪が埋まっている事に気づいた時に、今度は人の声がした。
「ハチー。…あっいた。」
ハチっていうのか、と犬をちらと見てから横を見ると少し離れた所に飼い主と思われる女性の影が見えた。すみませんと言いながら小走りでこちらに向かってきた。やがて街灯の明かりで姿が確認できると、優しい印象の綺麗な女性が現れた。ハチだけでも身構えてしまうのに、更に緊張する要素が増えた。

「すみません、リード外しててもちゃんとそばにいてくれるんですけ…あっ!」
ハチはひょいとベンチに乗り上がり、俺の隣に来たかと思うと腿の上に顎を乗せてくつろぎ始めた。突然の事でとっさに咥えていたタバコを右手で離し、胸のポケットから携帯灰皿を取り出してしまいこんだ。これには彼女も驚いた様で、慌てている。

「本当にすみません…!犬、苦手じゃないですか?」
「大丈夫っす…犬は割と好きなんで。」
「そうですか…よかった…。ハチ、そろそろ行くよ?」

心底ホッとした表情で笑った彼女を見て心拍数が上がっている事に気づく。慣れない動物に懐かれて動けないでいるから変に緊張が収まらない。ハチは呼びかける彼女に聞く耳を持たない様子で、目を瞑って俺に顎を乗せたままだ。彼女も少し困った表情になっている。このまま寝るんじゃないか…?と思ってハチをじっと見ていると、なんだか別にこのままでも良い様な気になってきた。

「俺、人を待ってたんで、その人来るまでこのままでもいいっすよ。」

困っていた表情は再びホッとした表情になり、ありがとうございますと言ってからハチの頭を撫でた。ハチを間に挟んで彼女はベンチに座り、背中を撫で始めた。右の足だけがハチ温もりを通してくる。よほどリラックスしているのだろう、尻尾は先ほどよりもゆっくりと振られている。

「家族以外の人でこんなに懐くのって初めてで、引き離しちゃうのもなんだしと思っちゃって…親バカでだめですね。」
「俺はあんま動物に好かれないんすけどね。」
「あ、そうなんですか?なんか不思議ですね。」

そう言って柔らかく笑う彼女はおそらく年上かなと思った。話していて安心感があるが、彼女が笑う度に心臓が跳ね上がり、これはハチだけのせいではないという事に気付いた。

「父親が忠犬ハチ公みたいになるようにって名前をつけたんです。その望み通りに育って、いつもちゃんと言う事は聞いてくれるんですけど…あぁ、そっか。」

彼女はハチの頭を撫で始めた。ハチは時折耳を動かし、気持ち良さそうに目を瞑ったままだ。頭撫でられるのって気持ち良さそうだな…とそこまで考えて、我に返った。俺は一体何を考えてるんだ。相当焦ってしまったのか咥えていたタバコを取ろうと手を口元まで持っていき、途中でない事に気がついた。どう考えても今の俺はおかしい。ふと彼女を見ると笑顔だった。

「なんか、好きになっちゃったみたいです。」

ハチが。と最後に付け加えられた事もちゃんと耳にも入っていたが、内心取り乱していた俺の中で何かのメーターが振り切れた。それと同時にハチが急に起き上がり、走り出した。
「あっ!今日はどうしちゃったんだろう…もう。」
彼女は苦笑いを浮かべて、走り出した方向へ向かい始めた。公園の入り口の方から歩いてくるトムさんの姿が見える。

「お、いた。静雄ーってなんだ!?」
ハチはトムさんの周りをくるくると回り始めている。彼女がそこに駆け寄り、また先ほどのような会話をしている事が予想できた。その二人をぼんやりと見るが、早鐘のように鳴っている心臓の音で何を話しているのか聞こえない。ハチだけでなく、今日の俺はどうかしている。ハチはトムさんが構ってくれないと思ったのか、再び俺の元にやってきて、最初にそうした様にまた尻尾を振って座った。もしかして、と思って恐る恐るハチの頭に手を乗せて頭を撫でた。するともっと撫でて欲しいと言わんばかりに尻尾を振り始めた。最初からこうして欲しかったのか、とやっと気付いた。ハチの可愛い姿にさっきまでの緊張が解け、顔が緩む。2人がこちらにやってきているのが足音でわかった。

「静雄さん。」

突然名前で呼ばれた事に驚いてばっと前を向いてから、ああ、そういえばさっきトムさんが俺の事を呼んでいたんだったと思い返した。

「今日はありがとうございました。ハチも喜んでるみたいだし。」
「いや、俺は何もしてないっすよ。」
リードをつけながら、彼女はまた俺に向かってにっこりと微笑んだ。
「また会えたら遊んであげて下さい。ハチが懐いた貴重な人ですから。」
それじゃあまた。と、言って彼女はハチを連れて歩き出し公園から出て行った。俺は茫然としながら、ついさっきまでの会話を思い出していた。また会えたらとはいつだろう。というか、俺は彼女の名前すら知らない。知っているのは飼っている犬がハチだという事だけだ。

「…ーい。おーい、静雄ー。」
気づくとトムさんに呼びかけられている事に気付いた。
「すんません。ちょっとぼーっとしてました。」
「……。」
トムさんは少しの間黙ってから口を開いた。
「…今の彼女、いつもは7時くらいにこの公園散歩してるらしいぞ。」
「え?」
「いや、さっき話した時に夜遅くに番犬がいるとはいえ危なねぇから気をつけなって言ったらよ、今日は遅いけどこの公園には7時くらいに来てるから大丈夫ですっつってたから。」
そういうとトムさんはニッと笑った。俺が何を考えていたのか全て見透かされていたらしい。どう言ったらいいのかわからず、ごまかす様にタバコに火を点けた。

「そうかー静雄にもとうとう春がきたかー。」
その言葉で、煙を吸いすぎてごほっとむせてしまい、否定するにもできない状況になってしまう。トムさんは笑みを浮かべたまま何度か頷き、言葉を続ける。
「そういや彼女欲しいっつってたもんなー。」
「言っ…たかもしれませんけど、」
「まぁまぁ、女には縁がなかったって言ってたじゃねぇか。上司である前にお前の先輩なんだからちったぁ協力させてくれてもいいんじゃね?」
再び笑ったトムさんはベンチに座り、多分また会えんだろ、とタバコに火を点けた。自分一人では動揺しすぎて何も聞けなかった事は情けなさすぎるが、トムさんに感謝した。今度、彼女達に会えたらすぐにハチの頭を撫でてやろう。それから、彼女の名前も聞こう。そんな事を考えながら夜空に消えていく煙を見ていた。



再会するを思って