09.嘘と事実


翌日の昼時の事だった。その日、はいつもの通り静雄とトムを含めた取り立て組に指示を出し、午前中の仕事をこなしてから昼食を取り、休憩室で休んでいた。そしてなぜか突然社長室に呼ばれた。


――さんお金とか相当困ってたらしいよ。
――でも売るのはまずいでしょ…。
――あの子に管理やらせたの誰だよ?
――仕事はちゃんとやってたけど、それも計算の内だったんじゃね?
――なんか証拠とか全部出てきたらしいよ、さんのデスクから。


事務室では社員たちがこそこそと話をしている。喫煙室にいた静雄とトムにもその話は耳に入ってきた。喫煙所にいる男性社員たちが話をしている所で静雄が声を上げた。

「個人情報を売った?誰が。」
「だから新人の、って子だよ。」

その名前が耳に入った途端、静雄は吸っていた煙草を二つに折って吸い殻入れに投げつけた。ガンッと煙草が投げつけられたとは思えないような音がした。

「…あぁ!?冗談にしちゃぁ笑えねぇなぁ…!」
「静雄、落ち着けって!なんかの間違いだ。」

トムはキレ始めた静雄を必死に宥めた。噂をしていた社員達は静雄の豹変ぶりに恐れおののいて震えてしまっている。何も被害がなかったのが奇跡といっていい位だった。トムの言葉に少しだけ冷静さを取り戻し、喫煙所を後にした。しかし事務室でも社長室へ行ったの話題でもちきりであり、静雄の怒りはまた沸々と頂点へ達し始めていた。あんなに一生懸命に仕事をするがそんな事をするはずがない。

「ってめぇら、いい加減に…!」


静雄が怒鳴ろうとする正に一歩手前の所で、ガチャリとが事務室に入ってきた。その場にいた全員が動きを止め、の方を見ている。は俯いていてほどんどの人からその表情は見えていなかった。そして彼女は深く深く頭を下げた。いつも頭を下げるを静雄は何度も見てきたが、視線を一身に受けたその姿はいつもと違っていて痛々しかった。


「申し訳ございませんでした。皆さんに大変ご迷惑をお掛けしました。短い間…お世話になりました…。本当にすみません。」


予想外の言葉に全員が息を呑んだ。その短い言葉でが自分のした事を認め、会社を辞める事になったのが明白だった。が顔を上げると静雄と目が合った。必死に泣く事を堪えている表情をしていた。違う、じゃない。そんな事はしないと確信した瞬間だった。それなのにどうして自分がやったと認めるのだ。行き場のない感情がぐるぐると静雄の中を駆け巡った。は自分の鞄を取り、支給されていた携帯電話を自分のデスクに置いて事務室を出て行った。がいる間は誰ひとり動こうとはしなかったが、出て行ってから皆が思い思いの会話をはじめようとした。しかし、それは遮られた。

「全員仕事に戻れ。」

先ほどまでと話していたと思われる社長が現れ、全員が各々の仕事へと戻っていった。社長はほとんどの社員が見た事のないような苦い顔をしてまた社長室に戻っていった。


静雄はトムに促され、外に出る事になった。追いかけるという選択肢は彼女が罪を認めた事によって無くなってしまっていたので、外に出てからも静雄はずっと苛々していた。トムはいつもが作っているリストをじっと眺めてから口を開いた。

「静雄。俺もちゃんがやったとは思ってねぇ。そういう子だろ?」
「…じゃあ…なんでアイツ認めたんすかね。」
「…俺はなんかあるとみてる。」
「何かって…。」
「俺は仕事終わったら調べっから、静雄は帰ったら話聞いてやれよ。社長に仕事しろって言われた手前サボれねぇからな…。」

静雄はトムもを信じていると思い、なんとか怒りが抑える事ができた。まずはに話を聞かなければ何も始まらなかった。今自分にできる事をしなければと気持ちを切り替えて池袋の街へと二人は歩き出した。



その15分程前、は何の話だろうと特に思い当たる節もなく、社長室に入った。するといつも人の良さそうな笑顔を向けてくれる社長の表情が硬く、何かが起きていると察知した。

さん…君は仕事をきちんとしていてくれて助かってるよ。」

口から出た言葉と表情が噛み合っておらず、は不安な気持ちになった。嫌な予感が胸の中を渦巻いていく。

「単刀直入に聞くが、個人情報を売ったのはさんかい?」
「個人情報…?何の話でしょうか…売っていないです。」
「では、これは?」

差しだされた何枚にも渡る書類はのメールの履歴だった。会社で使っているアドレスのもので、そこには個人情報の売買のやりとりが載っており、何かの間違いではないかと何度もアドレスを確認する。しかし、何度見ても自分のアドレスだった。自分のメールのパスワードは本人にしかわからないもので、他の人間がやったとは考えにくい状況だった。

「これ…違います。私じゃありません。」
「しかしね、顧客からももう何十件もクレームも来ている。君が管理している顧客だけなんだがね。」

実際に売買までされていた事に衝撃を受け、は只ならぬ状況になっている事を理解した。他にもの使っている携帯電話の履歴や、メールの履歴も仕事でパソコンを使っている時間帯である事が証明され、様々な証拠が出てきていた。


「個人情報は…わが社の宝なんだよ。わかるね。」


は自分に身に覚えのない犯罪行為に震えていた。そして一瞬だけある考えが頭を霞めて、一番考えたくない結論に達した。しかし、もうこうなっては遅い。実際にもう売買は行われ、会社に多大な損害と迷惑を掛けてしまっているのだ。それに気付きは愕然とした。そして、自分がこの会社に来なければこんな事にはならなかったという事に気付いてしまった。全ての元凶は自分にある。


「申し訳…ございませんでした。せ、せめてお客様に謝罪をしに行きます。」
「いや、謝罪は結構だよ。本来ならば警察に行く所だが…債務者の借金を帳消しにして示談にした。」
「え…?」
「君が謝りに行っても、売られてしまったものを取り返す事はできない。もう、君がする事は何もないんだよ。」

社長の目を見て、は全てを悟った。もう、自分のできる事はここには一つもない。そして、ここにいてはいけない。

「わかりました…責任を、取ります…。」
「……期待していただけに残念だよ。今月中にはあの部屋からも出ていってくれ。」

感情的ではない口調だったが、その言葉は罪を犯した人間を強く拒絶した冷たい声だった。はこの会社と、そして今まで一緒に仕事をしてきた仲間と決別しなければならない現実を認めたくなかった。

しかし、もう終わりはすぐそこまできていた。