08.冷めたランチ


にとってこちらの世界に来てから一カ月ほどが経ち、平穏な毎日が過ぎていった。仕事に行って、静雄とトムと打ち合わせをし、たまに一緒に昼食を取って、そして就業時間が終われば家に帰った。にとって今、自分にできる事は仕事をしっかり行って、新羅とセルティにお金を返し、そして前借りしている給料をゼロに戻す事だった。この調子で頑張っていればいいのだ、と新しい世界での自分の居場所を少しずつ広げていっている所だった。

そして今の仕事は以前の仕事よりも自分自身の生活のバランスが取れている事に気付いていた。以前は仕事で疲れ果てて休みの日にはほとんど家から出なかったが、今は一人暮らしであるにも関わらず休みの日にはきちんと家事をこなし、仕事のある日は充実した気持ちで眠りに着くことが多かった。そして業種は違えども、やっている仕事自体の目的は同じだった。販売員の仕事が顧客に信頼される事だとすると、今の顧客管理や指示出しといった仕事は顧客に加え職場の仲間に信頼される事でやりがいもあった。

その日は静雄とトムが休みだったので、は事務所の近くにある店で昼食を取る事にした。生活費は切り詰めていたが、ここの喫茶店はランチがリーズナブルだという事を前々からチェックしていた。そういう事ができるくらいのゆとりができた頃だった。注文するとスープと共に美味しそうなパスタとサラダ、パンのついた色とりどりのワンプレートランチが運ばれてきた。運ばれてきた時には思わず溜息が出てしまったほどだ。味も美味しく、は満足していた。そして食事が半分ほど進んだ所で隣から声を掛けられた。



「隣、いいですか。」

どうぞ、と言う前に視界を黒で埋められてとてつもなく嫌な予感がした。以前感じた冷たい感覚を、は覚えていた。


「…覚えてるかな、俺のこと。」

の顔を見ながら笑い、話し掛けてきた男と会うのは2度目だった。なぜこの男がに話し掛けているのだろう。街で一回会ったきりだというのに、この調子だと確実に自分に話をしにやってきている、と思い一人で外へ出た事を後悔し始めていた。

「…どこかで?」
「やだなぁ、とぼけなくてもいいのに。大体、シズちゃんや新羅たちといるのに俺の事知らないわけないでしょ。さん。」

折原臨也は、やはりどこまでも折原臨也だった。そのなんでも知っているという口調に少し怯んだ。やはり自分の事を知っているみたいだと警戒心を強めるが、一体自分の事をどこまで知っているのかがわからない。

「ああ…でも、って名前は違うのかな?いないもんね、そんな人。」

冗談でも言っているような軽い口調で核心をついた事を言った。は言い返す事もできず、自分の事をペラペラとしゃべる臨也の前で身を固くした。目の前にある食事が冷めていく。

「偽名かな?」
「…そうですよ。でも、偽名を使っている人なんて沢山いると思いますよ。」

偽名、という単語が出てきては自分の存在が異世界の者だと知られていない事を悟った。そういう事にしてしまえ、ととっさに考えて口をついた言葉だった。ただ身元を隠して生きている女、という認識ならば臨也はきっと自分の素姓をまだ掴みきれていないはずだ。


「ふーん。でも君のそのストールは存在自体がおかしいよね?」

不意打ちに椅子にかけていたストールを指さされて、の顔はひきつった。元いた世界から身につけていたそれはにとってお守り代わりの様なものだったが、今はそのストールに足を引っ張られる形になった。しまったと思った時には遅く、その表情を見た臨也は尻尾を掴んだとばかりに言葉を紡ぎ出す。

「そうなってくるとそれを持ってる君もおかしいよね。どんどん矛盾してくるよ。そもそもRain Dogsなんてブランド自体が存在しないのに、どうして君はそのタグのついたストールを持っているわけ?どこで買ったの?」

なぜブランド名まで知っているのだろうとはまた寒気がした。そういえば初めて臨也と会った時にこのストールを拾ってもらった。まさかその時点で目をつけられていたとは思ってもみなかった。さっきまでは幸せな気分で昼食を取っていたというのに、この数分で地獄へ叩き落とされたような気分だった。平和に過ごしていたいだけなのに。質問に何と答えていいのかわからず、は沈黙を貫くだけで重い空気が流れた。


「…まぁいいよ。自分で調べるから。今日はシズちゃんがいない日だから池袋の街でも観察でもしようかと思ったら、君が外に出てきてくれたからさ。ラッキーだったよ。」

静雄が休みの日だからチャンスだと思って自分に接触してきたのだ。そうは思うもの口は全く動かない。楽しそうに笑ってから臨也は席を立ち上がり、去り際に一言言い放った。


「またね。さん。」


また、なんて会いたくない。は恐怖していた。冷めきった残りの食事を見ながら、自分の存在を知られ利用されるのかと思うと背筋が凍る思いだった。




店を出た臨也は一つの確信をしていた。やはりは自分の事を「知りすぎている」と。静雄や新羅に気をつけろと言われたとしても、あそこまで警戒するのは違和感がありすぎた。どうやって自分の事をそこまで知ったのだろうか。会う度に、調べる度に興味が沸いてきたが、はそれ以上口を開かなかった。臨也は自分で調べるとは言ったものの、もう手を尽くした後でもある。

「さて…そろそろ駒を動かそうか。」

自身の口から全て話してもらう為にする行動が、自分の最大の敵である静雄にとって最大の嫌がらせとなる事を臨也は思い描いていた。



家にまっすぐ帰る気分になれず、は新羅たちのマンションに行く事にした。臨也の話は静雄とはした事がないし、話した所で新宿まで殴りにでも行ってしまうのではと思い、話す事は躊躇われた。

『久しぶり、さん!』
「こんばんはー…すみません、突然連絡しちゃって。」
『…?どうかしたのか?』

セルティはいつもより元気のないに異変を感じ彼女をリビングへ通した。台所では新羅が洗い物をしていたが、が来たので顔を向けた。

「仕事の方は順調?」
「はい、おかげさまですごく良くしてもらっています。」

ソファに座ったの顔がいつもより力のない事に気付き新羅も手を止めてやってきた。

「どうしたの?珍しいねさんがこういう感じになってるのって。」
「今日…折原さんに会いました。」
『臨也に?』
「はい…なんか…私の事を知っていて…正体不明の私に興味があるみたいで…すごく嫌な感じがしました。」

の背中はどんどん丸くなり、単語を発すると共に小さくなっていった。以前臨也の事を話した時もそうだったが、は臨也に強い苦手意識があるらしい。2人は臨也に目をつけられてしまったに同情した。

「でもまだ何も話していないんだよね?」
「はい…。自分で調べるからって言ってました。」
『いかにもアイツらしい言い方だな…。』
「折原さん、私が未来予知みたいな事ができるって知ったら…。」

そう言ったの顔は青白かった。ただでさえ別世界に迷い込んで大変だというのに、臨也と関わってしまったら人生を狂わされてしまうのではと恐ろしくなった。

「きっと調べようがないからさんに近づいたんじゃないかな。今までこの世界で生きてきた人にあるはずの軌跡がさんにはないだろう?いくら臨也でも存在のなかった人間を調べるなんて事はできないからね。だからまた何か仕掛けてくるかもしれない。」
『脅すような事を言うな!』
「脅してるわけじゃなくて、そういう風にわかっていたら対策の立てようがあると思うんだよ。」

新羅の言っている事は一理あった。だが、その対策というものがには見当がつかない。

「とりあえず、何か良い方法がないか考えてみるよ。」
『…そうだな。さんが普通の人間だという事を証明できればいいわけだし。』

話を聞いてもらうだけのつもりが、二人に新たな負担を掛けさせてしまったと思いは先ほどまでと気持ちを切り替えた。

「す、すみません。そういうつもりで来たわけじゃなかったんです…元気をもらいに来ただけというか。調べようがないなら、私の気にしすぎだと思いますし。」
『気にしないでいいよ。正体不明っていうのは私も同じだから。』
「セルティさん…ありがとう。」

そしては新羅たちのマンションを後にして少しだけ気持ちが落ち着いていた。しかし、事態は一刻を争うものだという事にも新羅たちもまだ気づいていなかった。