07.202号室


が仕事を初めてから数日が経過していた。は仕事に熱中しすぎるとキリの良い所までやり続けてしまう事と、まだ仕事のリズムが掴みきれていないので、一人遅めに休憩室で休んでいた。仕事が決まった今、の目下の目標は住む場所を見つける事だった。賃貸情報誌を見ながらどこか安くて良い物件がないかと見ているが、都内は家賃が高くページを捲る手はほとんど止まらなかった。そこに午前中の仕事を終えたトムと静雄が入ってきた。いつも二人は外で取るのだがが会社に入ってきてからは、職場に慣れていない彼女を気遣い、近くにいる時には戻ってくるようにしていた。

「お疲れ。」
「あれ、ちゃんしかいねぇの?」
「お疲れ様です。そうみたいですね。もうみんな休憩終わってるみたいです。」
「ああ、そうそう。これのおかげでここんとこ回れる件数増えてる気ぃするわ。」

二人はの向かいの席に座った。トムは数日前から渡されているリストの話をにしている。良かったと胸を撫で下ろしているの手元を見て静雄ははたと気付き、に話し掛けた。

「賃貸…って家も探してんだっけか。」
「あ…これ、そうなんです。早めに探しておくに越したことはないかなって思って。まだお金はないですけど…。」
「それなら社宅あんじゃん。そっちのがだいぶ安いべ?」
「社宅?社宅があるんですか?」

はこの会社に入ってから初めて聞く情報に目を瞬かせた。社宅、という事は通常格安で住めるものなので興味津津だった。せっかく安い物件があるのならという気持ちで期待が高まる。

「静雄も住んでるし。」
「…でもボロいっすよ。女が一人で住むような感じでは…。」
「おいおい、黒岩も住んでるだろ。」

あ、という顔をする静雄にトムは苦笑いをした。静雄も黒岩も住んでいるならばと更に期待が高まり事務の誰かに話をしてみようと思った。情報誌をパタンと閉じたを見て静雄は少しぎょっとした。実際の所、本当にあまり奨められるような住宅ではないのだが、止める理由もないので静雄は黙って昼食を食べ始めた。



「新羅さん、セルティさん、住む所が決まりました!!」

仕事を終えたは二人のいるリビングに入るなり明るい声で二人に報告した。2人とも仕事がないのかテレビゲームをしていてきょとんとした顔での方を向いていた。

『住む所って…随分と急じゃないか。…どうやって借りられたんだ?』
「社宅があったんです。会社の。それで給料を前借りする形で住んでも良いと言われました。」
『なるほど…良かったな。さんがいなくなるのは寂しいけど…。』

予想以上に早く仕事と家を決めてしまったので、せっかく仲良くなりつつあった同居人が去ってしまうことがセルティにとって残念だった。もちろん嬉しい気持ちもある。新羅は――しゅんとしているセルティも可愛いな…と思いつつも笑顔で良かったねとに話し掛けた。

「ん…?ちょっと待って、社宅ってことは静雄の住んでるアパートと同じ所?」
「はい、そうお聞きしましたけど。」
「あそこはあんまり綺麗な所ではないと思うんだけど…。」
「大丈夫ですよ、他の女性社員も住んでるって聞きましたし。」

はこちらの世界に来てから生きていく為には小さな事を気にしていたり、わがままを言っている場合ではないと思ってきた。以前の自分ならボロアパートは嫌だ、と思っていたかもしれない。だが今、それは些細な事だ。

「引っ越してからも遊びに来てもいいですか…?」
『もちろん!…あぁ、こんなに早く決まるんだったらもっと色々聞いておけば良かった。』
「料理ですか?まだ何日かありますし…携帯もありますし、いつでも呼んで下さい。」

近い内に引っ越す事を二人に伝え、の次の休みに一人暮らしに必要なものを買い揃えるという事で話はまとまった。これで更に新羅とセルティに借りるお金が増えてしまうのだが、これから徐々に返してくれれば良いと二人は祝福してくれた。



「…そういうわけだから荷物持ちよろしくね。」

新羅は目の前にいる静雄に笑顔で話し掛けた。それを見ているは笑顔を作っているものの、冷や汗が出ている。セルティは仕事で姿がなく、ここには新羅、静雄、の3人がいた。は新羅と買い物を終えた所で静雄が現れたので偶然かと思っていた。しかし呼び出したのは新羅で、山のようになっている生活必需品をを運ぶのを手伝ってもらう事にしたらしい。せっかくの休みだというのに怒りださないだろうかとは表情を伺う。隣の新羅は呑気なものでへらっと笑っている。

「すみません…。」
「ん?なんで謝るんだよ。鍵もらってんだろ?」
「は、はい。」
「じゃあ直接部屋に運んだほうがいいよな。」

スムーズに会話が進むのでは拍子抜けしていた。静雄は二人が重そうに抱えていた荷物をひょいと一人で持ってしまい、と新羅は驚いて口を半開きにしてしまっている。は静雄が仕事で接していると大人しいので忘れてしまいがちだったが、常人ではない力の持ち主だと思い知らされていた。

「なんか静雄一人で大丈夫そうだね?重くない?」
「別に?」
「じゃあ任せたよ!私はセルティが帰ってくるといけないから先に帰ってるね、さん!」
「はい…あ、付き合って下さってありがとうございました!」

既に家の方向へ駆け出している新羅に呼びかけると、新羅はぶんぶんと手を振って去っていってしまった。よほどセルティと二人きりになれるのが嬉しいのだろう。これは早めに引っ越さないと邪魔をしてしまうな…と思い、今日は遅く帰ったほうがいいかとは思いを巡らせていた。

「じゃあ行くか。」
「はい…というか何か持ちます。持たないと申し訳ない…。」

いくら軽そうとはいえ自分の荷物を全て持ってもらうわけにはいかない、とが手を出した。

「重くねぇっつってんのに。ほら。」

そう言って静雄は一番軽い袋を手渡した。これでは本当に何の足しにもならない。ちょっと困った顔をしたに静雄は首を傾げた。それを見て、は笑った。

「静雄さんて、ほんと優しい。」

不意に言われた言葉に静雄はうろたえた。自分と優しいという言葉があまりにもかけ離れ過ぎていて、自然にそう言ったを見ていられなかった。最初に会ったときからそうなのだが、彼女は自分の調子を狂わせてしまう。

はといえば最初に会ったときからずっと思っていた事だったし、実際その優しさを見ていて惹かれていた。静雄を形容する言葉は沢山あったが、それはいつも恐怖や暴力といった言葉ばかりだった気がする。しかし、それ以上に優しい事をこの数日間だけで知る事ができた。小説の中だけではわからなかった事が、にとって一つ一つ新鮮だった。



「ここ。」
「うーん、確かに年季入ってますね…。」

会社からほど近い場所にある社宅に辿り着くと、昔ながらの2階建てのアパートで、所々塗装がはがれていた。オートロックは当然なく、全体的に手すりや柵が貧相で頼りない印象がある。静雄や新羅が躊躇っていたのも少しわかる気がした。

「ここ、6部屋しかねぇんだけど、どこの部屋?」
「えっと、202って書いてあります。」
「202?…隣か。」
「えっ?」
「俺んちの隣。」

そう言って静雄は階段を上がり始めたのでも後に続いた。階段も二人続いて登ると揺れるので、途中からはスピードを緩めて登っていった。

「1階は奥から黒岩、青柳、空き部屋な。2階は203の俺だけ。」
「随分空き部屋があったんですね。」
「まぁボロいから、誰も入居したがらねぇんだよ。中はそうでもねぇんだけど…あと、他の空き部屋は不備が多い。」
「はぁ…。」

2階に上がりすぐに201号室の窓にヒビが入っているのを見つけては納得した。202号室の鍵を開けて入ると外観の割には綺麗な内装では驚いた。これは内装だけリフォームしているタイプの賃貸だと、以前一人暮らしをしている友人の家に行った時の事を思い出した。静雄は部屋に入り持っていた荷物をどさどさと床に置いた。

「荷物、ありがとうございました。助かりました。」
「なんかあったらまた言えよ。どうせ家、隣なんだし。」
「ふふ、ありがとうございます。」

何かおかしい事を言っただろうかと静雄は首を傾げた。相変わらず優しい人だとは顔を綻ばせた。



それから一週間後にはそのアパートにも住むようになった。2階なので安心だし、見た目の割には中が綺麗なのでは何も不自由を感じていなかった。ただ一つ気になる点を上げるとするならば

“バタン”

壁が薄い事だった。いくらリフォームをしたと言っても壁の厚さだけはどうにもならないらしい。はドアを閉めていないのに籠った音がした時には少し驚いた。しかし静雄も静雄で入居してから隣に誰かが住んでいた事がなかったので、同じように驚いていた。

――なんか同じ家にいるみたいだな。

二人とも同じ事を考えているのだが、あえて壁が薄いという話はしなかった。聞こえていても生活に支障が出るわけではないのだし、一人暮らしのワンルームというのはそういうものなのだ。

夜、窓が開く音がするとは静雄が煙草を吸っているんだなと思ったし、朝、カーテンの開けられる音がすると、静雄は自分より先に出勤するが起きたんだと思い再び眠りに落ちた。

そしてその音がは嫌いではなかった。それらの音は家族を思い出させた。玄関から帰ってきた人の足音。いつまで寝てるのと言ってカーテンを開ける音。皆でよく見ていたテレビの音と笑い声。家族の事を思い出し、懐かしく思った。みんな元気だろうか。にとって静雄は別に一緒に住んでいるわけでも家族でもないのだが、隣に人がいる、と思う事で安心して眠りに着く事が多かった。