02.夜の池袋


「いいえ、どういたしまして。」

にっこりと人好きする様な綺麗な笑みを浮かべて、男はにストールを渡した。サラサラとした黒髪は風に吹かれている。トレードマークともいえるファーコートで誰なのかがすぐにわかった。まさか、本当にいるなんて。小説で読んでいる分にはとても興味深くて、面白かったけれど、現に目の前にいると思うと得体の知れない不安が襲ってきた。夢かもしれないとついさっき思ったばかりなのに、気温とは違う冷たい感覚が手足の先から徐々にを支配していく。ただそこに人が立っているだけだというのに。彼を知らない人ならばこんな風に思ったりしないのかもしれない。

「この世の終わりみたいな顔で電話してたみたいけど、大丈夫ですか?」

少し心配している色を出しながら、それでも笑顔の印象を変えずに尋ねてくる。は何と答えれば良いのかわからなかった。誰とも連絡がつかなくなって。というか自分のいた世界と違う世界に来てしまったみたいで。そんな事をこの人に言っていいのだろうかと困惑した。今までの自分の行動を見られていたと推測して、頭の中を急速に回転させながら急く様に結論を出した。

「大丈夫です。飲みに行こうと思ったんですけど、誰とも都合がつかなくて…。」

折原臨也にはなるべくかかわらないほうが良い。それがの出した結論だった。確かに困った状況ではあるのだが、頼るべきはこの人ではないと確信したのだ。彼女はなるべく明るく自然な笑顔を作った。あまり納得できない言い訳かもしれないが、きっともう会う事もないのだから多少違和感があっても良いだろう。へぇ?と呟くような声が聞こえてきた。

「じゃあ、私はこれで。ありがとうございました。」

と会釈をしては臨也のいる方とは逆の方向へ歩き出した。臨也はの後ろ姿を見送り、その顔に笑みを携えたまま、とは逆の方向へと歩き出した。



歩き出したもののの行く当てはなかった。だが、折原臨也とはなるべく同じ所にいたくないと本能的に思ったのだ。今現在、小説のいつの部分に当たるのかはわからない。しかし、小説の前でも途中でも、自分がこれから起こる事を知っていると知られたら、悪趣味な彼の事だから面白がるに違いない。人間である限り興味を持たれてしまうのだから。一番望ましいのは小説とは全く無関係である事だが、はその小説の終わりを知らないので、どちらにしろ不安な事に変わりはなかった。風が強くなってきているせいか、はぶるりと身を震わせた。

自分がこちらに来たきっかけの場所に戻る事も考えたが、戻れば臨也と鉢合わせるかもしれないと思い自然と早歩きになった。どうにかして今夜一晩だけでも過ごさなければならない。所持金もなければ知り合いもいない。自分を知っている人はこの世に誰もいなくなってしまったのかもしれない。そう考えると恐ろしくなった。

――こんなに人がいるのに。

都会の雑踏で足を止めると色々な音や声が聞こえてきたが、そこに自分と繋がるものが何もないことに気付いた。は不安な気持ちに飲み込まれてしまいそうだった。しかし、自分を知っている人が一人もいなくとも、自分が知っている人たちは何人かいる。あまり常識人が出てこなかった様な気がするが、小説の登場人物の中には頼れる人がいるかもしれない。その中でも頼れるとすれば、門田京平を始めとするワゴン組か、もしくはセルティと、岸谷新羅だろうか。臨也に会ったせいかはわからないが、の心境は先ほどまでとは変わって、このままではいけないという気持ちの方が強くなっていた。身体は疲れていたが、それらの人とどうやって会えばいいのかを思案し、は戸惑う事なくすぐに通り掛りの人に話しかけた。


「ヘーイ、社長さん、ドーモネ。」

店から顔を覗かせた黒人の姿を遠目から見て、は店の名前をしっかりと確認した。「露西亜寿司」の店の前には特売日の看板が出ている。池袋に臨也がいるのはおかしいとは思ったが、この看板で全て納得がいった。もしかしたらワゴン組がいるかもしれないし、岸谷新羅の家を知っているかもしれないと思い、場所を尋ねて露西亜寿司にやってきた。人を尋ねて歩くより、より確実に誰かに会えそうな店を選んだ。時間的にも閉店しているかもしれないと懸念していたが、間に合ったようだ。

ドアを開けて入ると予想以上に巨体のサイモンが目の前におり、は驚いてのけ反ってしまった。

「すみません。今日、門田さんたちは来てますか?」
「オー、門田のオトモダチ?」
「そ、そんな所です。」
「今日は来てないヨー。テンチョー、今日門田シャチョー達来たカ?」
「いや、来てねぇな。」

流暢な日本語で話すデニスを見て落胆したが、もう一つの質問をした。
「店長さん、あの…岸谷先生の家をご存知ですか…?」

突然見知らぬ女が闇医者の家を尋ねるのはおかしいとは自身もよくわかっていた。しかし岸谷新羅の家を知る人は限られているし、その人達が今池袋のどこにいるのかはわからない。臨也に聞いておけば良かったのかとも思ったが、今はもう遅い。露西亜寿司の2人は場所を知らないかもしれないが、確か繋がりはあったはずだと思い、連絡先だけでもとここへやってきたのだ。

「具合でも悪いのかい?」
「いえ、悪くはないんですが、どうしてもお話したい事があるんです。…見ず知らずの人間がこんな風に尋ねてくるなんておかしいとはわかってるんですが。」

これで教えてもらえなかったら、と自然との目は真剣になっていた。今度は別の手段を使って探すしかない。だが、もう夜も更けており物騒な人達が増えてくる前に知っておきたかった。デニスはしばしの表情をじっと見据えてから、おもむろに動き出し紙にペンを走らせた。

「これでいいか?なんだかワケありみたいだからな。それに悪人ってわけでもなさそうだ。」
「…あ、ありがとうございます!」

は住所が記された紙をもらい、頭を下げた。組織にいた人間だからなのだろうか、ワケありの人間を見分ける事ができるのかと思いながらロシア寿司を後にした。

よかったと思いながら少し歩き出し、住所の書かれた紙を見て立ち止まった。土地勘のないにとってはここからどの方向へ行くのかがわからなかった。知らない場所へ行く時には携帯のナビに頼っていたが、今は繋がらないのだ。電信柱にある住所を辿ろうかと店の周りをうろうろとするも、全く意味をなさなかった。もう一度戻って方向だけでも聞こうと思った所でふと気付くとつい先ほど懸念していた事態に陥っていた。

「おねーさんどこ行くのー?」
「今一人?だったらイイコトしよっかぁ~~。」

私のいた世界の池袋もこのくらい物騒なのだろうか、と冷静に考えながらもこの危機的状況をどうやり過ごすべきかをは考えはじめていた。






「あ、そういや。」

デニスはを見送った後、手を止めて奥の座敷に目をやった。こいつらが来てた事を忘れてたな…と空いてきた時間だったので、奥に通した事を思い出した。すると彼らはちょうどカウンターに勘定をしにこちら側に向かって歩いてきた。