01.迷い込んだ先


営業の終えたビル街の間を女性が足早に歩いている。肌寒さの残る3月、夜が更けると気温は低く、彼女は鞄に入れていたストールを首に巻いた。

は一つの店を任せられている。ブランド自体の知名度は低いものの、レディースのファッション販売店の中では顧客も他店より多く、一定の売上を誇りビル内でも一目置かれていた。だが、彼女にとって早すぎる出世は疲労感と責任感で慌ただしかった。仕事は嫌いではないし楽しさもあるけれど、私生活を投げ出しすぎている様な気がしていた。その証拠に、休みの日は外にも出ずにとことん家で寝ていたり、だらだらとネットサーフィンをしたり、読書をする生活をしており本当の意味で心と体を“休むだけの日”になっていた。

――あぁ、やっと休みだ…明日は何読もう…。

妙齢だというのに仕事一本で色恋沙汰のないは疲れの混じった溜息を吐いた。バスの時間が迫って腕時計を見た。するとガクン、と突然左足が何かに引っ張られる様な感覚がして見てみると、ヒールがタイルの間にはまっていた。よくある事なのでさほど驚きもしなかったが、足を抜こうとするもなかなか動かず、仕方がないので靴を脱いで引っ張る事にした。

誰かに見られると少し恥ずかしいので、周りに人影がいない事を確認して、左足の靴を脱いでから両手でぐいっと靴を引っこ抜いた。よし、と一息ついて靴を再び履き直すと、目の前の光景が先ほどまでと全く違う事に気がついた。

――あれ…?人がいる。

つい先ほど周りを確認した時には人がいなかったというのに、の前を人が通り過ぎたり、追い抜いていったりしている。一気に雑音が増え、ざわついた雰囲気になった。もとより、地方であるため、夜9時前後の人通りは少ないはずだ。道にいつもより人が多くいる事にとても違和感を持った。
道でも間違えたかと思い後ろを振り返ると、煌びやかなライトがビルから放たれており、先ほど後にしたファッションビルがなくなっている。異変を感じた彼女の心臓の音がドクドクと逆流するように大きくなっていく。

冷静にならなければと焦る心を落ち着かせて、自分が今どこにいるのかをまず確かめようと思った。明るい方で人のいる所に行けば何か安心感があるし、誰か人に聞いてみてもいい。自分が歩いてきた道を戻る様にビル街のほうに近づいた。少し歩いていくとコンビニの看板が見えた。途中で道を聞こうかと思ったりもしたが、話しかけようにも人の歩くスピードが早く感じ、尻ごみしてしまう。バスに乗る事よりも、一体自分がどこにいるかを知る事の方が先決だった。混乱する頭でコンビニに入る手前で女子高生らしき二人組とすれ違った。

「ねぇねぇ聞いてよ、今日平和島静雄がポスト投げる所見たんだ!!」
「えっマジで!?こっわ!」

思わず耳に入った言葉に聞き覚えのある単語があり、足を止め振り返る。私、自販機投げるとこは遠くから見たことあるー。今日めっちゃ近くて超怖かった!などと女子高生は驚きと恐怖を混じらせながら話して歩いて行った。

――平和島静雄、は小説の登場人物。

自分の好きな小説の事だから間違いはないと思うも、さも本当にいるかのような臨場感で女子高生たちは話していた。

何かがおかしい…とは思いがら、コンビニに入るとレジの前の棚に
「池袋サンシャイン店オススメコーナー!!」
とあるのを見て足をぴたりと止めて何度も見直した。コンビニ前の新聞も地元にはない東京新聞が置かれている。

自分がいるはずの職場から池袋は数百キロ以上も距離がある。急に瞬間移動してしまったという方が正しい表現のようだが、は首を振って思い直した。こんな事は絶対にありえないと言い聞かせる。しかし、夜も遅い時間でなじみのない場所にいるのは居心地も悪く、とりあえず家に帰る方法を考えた。新幹線で帰るしかないと思い財布の中を見ると数千円しか入っていなかった。帰れないのであればインターネットカフェで一夜過ごすしかないかとも思いATMに向かう。

するとカードを何度入れてもエラーで返ってきてしまう。銀行だけでなく郵便貯金のカードも使えなかった。つい数日前には使えていたはずのものだ。嫌な予感が心の中を支配していく。まさかと思い、ガムを一つ掴んでコンビニのレジでクレジットカードを出したが、エラー音が鳴り使えないと言われるだけだった。

――どうしよう。全部使えないなんて…。

焦りながらもお金を引き出す事を諦めてコンビニの外に出る。東京にいる友人の家に泊めてもらうという選択肢もあったが、家にいる家族に連絡をしようと思った。突然池袋に来てしまったと言って信じてもらえるかどうかはわからないが、何か良い提案をしてくれるかもしれない。自宅の電話番号を探し、通話ボタンを押した。

「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」

聞こえてきてすぐに、再び嫌な予感がした。何度も掛けても同じだった。そして家族の個人の電話番号に掛けても同じだった。だんだんと事の重大さがのしかかってくる。次は友達にと片っ端から掛けるも全く繋がらない。途中、携帯のほうが壊れたのだと思い直してコンビニに併設されている公衆電話を使う事にした。

風がひゅうと吹く度に自分の巻いているストールが視界を邪魔するので、強引にバッグに押し込んで、知っている電話番号に全てに電話を掛ける。親戚、職場や、行きつけの店。必死になって携帯を片手にダイヤルするが、聞こえてくるのは同じアナウンスの冷たい声だけだった。


突然、受話器の方とは別の耳に馬の嘶きような音を聞きは我に返った。私はあの小説のアニメも見ていた。そして、この音を知っている。ガチャンと受話器を置いて、振り返って意識しない内に呟いていた。

「………セルティ。」

セルティがもしかしたら近くにいるかもしれない、と思った。それはつまりどういう事なのか。もう、は自分の事を知っている人との繋がりが何もないと、電話を掛けながらも頭の隅で気づいていた。私は小説の世界に迷い込んだという夢を見ているのだろう。だから突然池袋に来て、平和島静雄の目撃談を聞き、セルティのバイクの音を耳にしたのだろうと。それでも、このリアリティは何なのだろうと茫然と手の中にある携帯を見て思った。そしてその次の瞬間にはとうとう夢か現実かわからなくなるのだった。





「落しましたよ、これ。」


茫然と立っていたの隣に、自分のストールを持つ人の手が目に入った。自分のバッグを確認すると先ほど無理やり押し込んだはずのストールがなくなっている。きっとしっかりと入れていなかったので、風で落ちてしまったのだろう。

「すいません、ありがとうございま…す。」

と拾ってくれた人物を見た時にびゅうっと一層強い風が吹いて息を呑んだ。