片恋ラッド 「ブレンド一つで。」 夜8時。私は仕事帰りに深夜までやっているファーストフード店へやってきた。池袋駅前店であるここはまだまだ若い人たちがいて人で賑わっている。喧騒も、人の多さも、仕事をするのにふさわしくない。窓越しに見える人の流れと街灯をぼんやりと眺めてから座ると、私はパソコンを開いた。 自分の家はここから近いからすぐに帰れるし、お腹が空いたら何か頼めばいい。ここの閉店時間は2時だったはずだ。窓に面したおひとりさま向けの席は私を落ち着かせた。 一人で静かな部屋にいる事が辛いから、この空間で仕事をすると決めた。別に急ぎの仕事でもなんでもない。やる事がないとまたぐるぐると同じ思考が無駄に繰り返されるだけなのだ。それならば若者の会話をBGMにして仕事をしている方がマシだった。 長く付き合っていた彼氏と別れた。ただ、それだけの話だ。何をどう考えたってその事実は変わらないのだ。そう何度も自分に言い聞かせているのに、ふと気がつくと同じ事ばかり考えてしまっている。 どうしてこうなってしまったんだろう?何がいけなかったのか。あの時、ああしていればよかったのか。あの時、ああ言ったからいけなかったのか。そうしていくつもの後悔とやり直したい沢山の選択肢が頭の中に浮かんでは消えていく。そんな事をいくら考えたって無駄なのに。もう、終わってしまった今それらが実行に移されることはないのだ。 ふっと、パソコンの画面の外の光景が止まった。人が行き交う駅前で違和感を感じて見上げると、見覚えのある姿がそこにあった。仕事道具を肩に掛け、彼は口の形だけを変えた。ガラス越しでも彼が「よぉ。」と言っている声が聞こえたように感じた。そして彼はそのまま通り過ぎていったかと思うと店に入ってきた。 普段の私なら、自分の中にあるスイッチをオフからオンにして人と話す時の態勢に入るのだが、この時ばかりは仕事で疲れていた事と、昔からの顔馴染みである彼だという事があいまって上手く切り替えができないまま間の抜けた声を出していた。 「門田。」 「お前こんな時間まで外で仕事してんのか?」 私の脇に立って表情を変えずに門田は尋ねてきた。ニット帽に半分隠れてしまっている眉は少しひそめられていて、世話焼きというか面倒見が良いというか、相変わらずだなと少し笑ってしまった。別に急ぎの仕事ではない事を伝えると彼もまだ仕事があるらしかった。ちょっとここで休憩してから行くと言って、ドサリと私の隣の席に道具を置いた。ポケットの小銭を確認すると、何かを頼みにカウンターへ向かって行った。 門田の後ろ姿を見ながら私は薄々感づいていた。門田も、前の彼も、私も、同じ高校だったのだ。だから長い付き合いで高校時代から付き合っていた私達の事を知っているし、共通の友人も沢山いる。きっと彼は別れた事を誰かから聞いたのだろう。 私と門田は同じクラスで、あまり男友達のいない私にとっては、珍しく気兼ねせずに話せる友達だった。それは学生から社会人になり地元を離れずにいる今まで変わらなかった。何ヶ月も合わない時もあれば、何の偶然なのか一週間後に街でばったり会うということもあった。今回も最後に会ったのがいつだったのかあまり覚えていないが、数ヶ月ぶりだったような気がする。別れたのが一ヶ月半くらい前だから確実にその間は会っていなかったはずだ。 門田は私と同じコーヒーカップを手にして戻ってきた。あまり気を遣わせてしまう前に自分から切り出そうと思い、彼が座ったと同時に私は口を開いた。 「私、別れたんだ。」 どうして人に別れた事を伝える時、その人の目をうまく見られないのだろう。と、私はもう何回目かになる報告にふと思った。相手がどんな目で自分を見ているのか、いつも直視できなかった。 「…冗談…?ていう感じじゃねぇな。」 「うん。誰かから聞いてた?」 「いや?初耳だ。」 あれ?と少し思った。誰かから聞いていたから気に掛けていたわけじゃないのかと。改めて門田を見ると、大袈裟に反応するでもなく、ただ静かに話を聞いてくれていて少し有難さを感じた。 「上手くいってると思ってたんだが…そろそろ結婚するとか言ってなかったか?」 「私もそうなると思ってた。はは。」 「…大丈夫なのか?」 「うん、もう大丈夫。結構前だし。」 結構前、というのが一ヶ月半前だとしても私と彼が付き合っていた何年もの歳月には遠く及ばないと自嘲した。強がりでもなんでも、何かプラスの事を言って言霊にしていかなければ立ち直っていく事ができないと思っていた。門田は最初に眉をしかめていた時よりも更に表情が険しくなっていた。 「なんかね、好きな子ができちゃったみたい。…そんな人にさ、考え直してとも何も言えなかった。もう、気持ちがない人に何言ってもね…しょうがないよね。」 別れを告げられた時、好きな人がいると言われた時、そして別れると決まった時。その度、自分が必要ないと言われたようで胸が苦しかった。この人は私がいなくても生きていけるし、平気なんだと。話している今も少し胸につかえがあるようで、対面で話していなくて良かったと心底思った。パソコンの画面がスクリーンセーバーになり、文字が消えては現れを繰り返している。画面から目を離してちらと門田を見ると目線を少し下に置き、静かに何かを考えているようだった。そんなに必死に励まそうとしてくれなくても、もう仕方がないのにとまた胸の辺りが苦しくなる。 「もういい年だし、合コンとかお見合いパーティーとか行って、相手探した方がいいかなぁ。…私、学生の頃、この歳になったらもう結婚して子供がいるもんだとばっかり思ってたからさ、うまくいかないもんだよね。」 ははっと明るい調子で言ったにも関わらず門田は黙っている。こういう時はいつも少し笑いながらも何か言葉を返してくれる人なのに。そう思うと少し寂しかった。 「…じゃあ、もういいんだな?」 「…え?ああ、元彼の事?…しょうがないし、なんだか落ち込んでる時間ももったいないしね。」 「いや、そっちの話じゃねぇ。」 「俺がお前に付き合ってくれって言ってもいいんだよな?」 息が止まるような門田の発言に私は一瞬止まり、その後何か聞き間違えたのかと思い直した。 「え、冗談…だよね?」 「冗談じゃねぇよ。」 「だって、私別れたばっかりだよ…?」 門田が真っすぐに私を見ていた事に気付き、どんどん心拍数が上がって顔が熱くなってくる。 「たちが結婚でもしてくれれば諦めもつくかと思ってたんだけどよ。もう、いいんだよな。」 「な、なにが。」 「俺は高校の頃からお前が好きだった。」 こんなにストレートな告白をされたのは生まれて初めてだった。冗談でこんな話をする人ではない。それは私自身が一番良く知っている。そういえば門田は女子に人気があったにも関わらず彼女を作らなかった。それは高校の時も、卒業してからもずっとそうだった。作ろうと思えばすぐ出来るのになぜだろうと思っていた。 「今言わねぇと一生後悔すると思った。次に会った時に彼氏ができたなんて言われるのはごめんだからな。」 「そ、そんなに早くできないって…。」 どうしよう、というのが本音だった。ただ素直に嬉しかった。今日は多少強がってはいるものの、 一番自然体でいられる相手にそのままでいいと言われたような気持ちだった。でも、私はまだ忘れきっていない。 それで付き合うだなんてそんな事、許されるのだろうか。だからといって忘れるのがいつになるのかがわからない。 そうやって冷静に考えようとしているのに、ずっと私の心臓は鳴りっぱなしで耳まで熱くなってきた。 今まで、門田を友人としてしか見てこなかったのに、自分の事を好きだという男性なのだと意識させられ、直視する事ができなくなってしまっていた。 門田がカップを手にして、コーヒーをすするとごつごつした大きな手が目に入った。こんなに肩はがっしりしていたんだっけ。今まで彼を見ていたようで、見ていなかったことに気付いた。 「わ、私…さっきはああ言ったんだけど、まだその…気持ちの整理がついてなくて…完全に忘れられてなくて…。」 「…まぁ、そうだろうな。」 「忘れるまで待っててとかは何様っていう感じだし。」 「そうか?」 俯きながら話していた私は顔を上げると門田はふっと優しく笑った。ああ、そうだ。さっき話した時に私はこの顔が見たかったんだ。ホッとするのと同時にどくりとまた心臓が跳ね上がった。 「もう何年も待ったんだ。少しくらい延びたって変わんねぇよ。」 もう、こんな風に胸が高鳴ったりすることも、誰かを一途に愛することもできないのだと諦めかけていた。でもどこかで希望を捨てられずにいた。 また、私は人を好きになったりできるのだろうか。できる事ならそれが彼でありたい。視界の端に映る赤い光を辿ると、信号が赤から青に変わり、人の波が動き出していた。 |