09.鈴の音



静雄は昨夜、浅い眠りを繰り返していたようで何度も目を覚ましていた。熟睡していた時間はほとんどなく、寝不足であまり本調子ではない。そういう時に限って決まって池袋に現れる男がいる。



「てめぇ池袋に来るんじゃねぇえええええ!!」
「そのセリフは聞き飽きたよ。今日はどうしたわけ?悪い物でも食べた?」

池袋の日常と化している静雄と臨也の喧嘩をトムは遠巻きにしながら見ていた。トムの目にも今日の静雄は本調子ではない事がわかる。臨也は静雄の不調を良い事にいつもより余裕の表情を見せ攻撃をかわし、その場を去っていった。


その日の静雄は不調で、たまたま池袋に臨也が来た。それだけの話だったのだが。








「なんで…?」
「シズちゃんがさんの家の鍵を落としてったから届けに来てあげたんだよ。」

本当なのだろうか、とはやっとの思いで体を起こして臨也の目を見た。嘘を全部見抜こうと射抜くような目で見るに再び臨也は興味を示した。今日は何か打つ手を用意していてくれるのだろうかと。臨也が鍵をテーブルに放るとリンと鈴の音が鳴った。

「…嘘言わないで下さい。」



静雄との喧嘩の時に臨也はいつもとは違う音が混じっていることに気がついた。この鈴の音はなんなのだろうと思い、静雄のポケットからすったのだ。そして出てきたものは見覚えのある鍵とキーホルダーだった。それはかつて臨也がを犯罪者に仕立て上げ、アパートに向かった時にが持っていた鍵だった。鍵だけを手にし、雨に濡れていた彼女の姿はとても印象的でよく覚えていた。いい物を手に入れたと思い、静雄が気付く前にの所までやってきたのだ。





「ねぇさん、こないだ話の続きだったの覚えてるよね。…君がいつかは消えちゃうんじゃないかって話。」

一番掘り下げて欲しくない話題では目を逸らした。ポケットに手を突っ込み、臨也は軽く首を傾げ、普段通りの調子で話し続ける。

「その小説ってもう終わってるの?そうすると終わりはいつ?」
「…知らないです。」

身体的にも余裕がないせいか、売り言葉に買い言葉だった。臨也に終わっていないと言ったも同然で、は再び口を結んで床を見た。早く帰ってもらうには一体どうしたら良いのか見当がつかず、額に手を当てた。そして少しだけ臨也に目を向けたと同時に、体に衝撃が走って目を瞑った。目を開けると視界が反転し、臨也が自分に馬乗りになって両腕を掴んでいる事に気付いた。

「なっ…にを…!」

一体その細い腕のどこから力が出てくるのだろうか。ぐっと力を入れて抵抗しても熱の上がった体では力も入らず、逃げるどころか動く事も敵わない。の目を見て臨也は嘲るように言葉を発した。

「話したくない理由を当ててあげようか?君は俺に駒として利用される事よりも、もっと別の事に怯えてる。手に取るようにわかるよ。君の弱点は」
「離して下さい…!」
「そんなにシズちゃんに忘れられるのが怖い?それとも二度と会えなくなるのが怖い?どっちも嫌?」

核心を突かれた言葉にの目に涙が溜まってきた。全部、これは想像の話なのだから気にすることはない。口車に乗ってはいけないと思うのに臨也の言葉が脳を揺らし続け、溢れてきた涙はとうとう零れ落ちた。臨也はの表情を見るとゆっくりと顔を近づけて囁いた。



「それなら俺を愛せばいいよ。」

時が止まったかのようには今の言葉の意味を理解できなかった。


「俺はさんの事も周りの人間の事も平等に愛していける。だから君が消えたって今と変わらずに他の人間たちを愛していける。シズちゃんを悲しませたりするのが嫌なら俺にすればいい。」
「…そんなのは、愛じゃないです。」

の言葉は予想ができていたので、臨也は鼻で笑ってから腕を離してベッドを降りた。

「愛の形がみんな一緒とは限らないよ。じゃあ俺は鍵も届けたし、帰るとするよ。お大事にね。」

は臨也の背中を見送る事もなく、言われた言葉を反芻していた。バタン、とドアの閉まる音だけが部屋に響いた。






静雄が鍵をなくしたことに気付いたのは全ての仕事が終わって家に向かっている途中の事だった。いつ落としたのか全くわからず、アパートに向かって走った。の部屋まで来てドアに手をやってからインターホンが先だった、と思ったのに鍵は開いていた。すんなりと開いたドアの先にが眠っている姿が確認できて、ホッとした。一度外に出たのだろうか。

静雄は少し迷ったが、そのまま部屋に入った。鍵を落としてしまった事を話さなければならない。少しずつに近づくにつれて妙な感覚が増していった。今までこの部屋に入ってみてこんな風に感じたことはない。空気が悪い。何かがおかしい。を見ると片手に携帯電話を持ったまま眠っている。そして頬には涙の跡が残っている。そしてテーブルを見ると落としたはずの鍵が置いてあった。

――どういう事だ?

不可解な状況を理解しようとするが全くわからない。鍵を手にすると、リンと音が鳴ってがうっすらと目を覚ました。

「あれ…静雄さん。あ、私静雄さんに電話しようと思って…。」
…悪い、俺、鍵落としちまって…。」

は持っていた携帯電話に気付いてからぼんやりとした表情を見せた。目が赤いような気がするのは気のせいではないだろう。静雄はに謝ると昨晩と同じ場所に座った。

「いえ、大丈夫です。こうやって戻ってきましたし。それを伝えようと思って。」
「具合大丈夫か…?」
「はい…昨日よりはだいぶ…。」
「誰が来た?」

と、静雄は言葉を発したと同時に布団に白い羽が落ちており、目を見開いた。先ほどからのいくつもの違和感が一つの線になった。一気に頭に血が登っていき、体が震え出す。

「臨也か…?」
「か、鍵を届けにきてくれただけなので。」
「…じゃあなんでこの鍵がのだってわかったんだ?」

は静雄に言われた事が正論すぎてすぐに言葉が出てこなかった。は臨也が静雄から鍵を奪ったか何かしたのだと気付いていた。だが、それは静雄に悟られてはいけない。

「多分、私が持ってる所を見たからじゃないですかね…折原さんの事務所に行った時に持ってましたから…。」

静雄の強くなりつつあった怒りの感情がその言葉で少しだけおさまった。今は鍵の事より、の様子の方が先だと思いなおした。

「アイツ…何か言ってたか?」
「いえ、特には…。お大事に、とは言ってましたけど。」

そんな目をしているのに何もないわけはないだろう、と静雄は思ったが口には出せなかった。何かがあったのだろう。だが、が自分に話す事を拒んでいるのだから、それ以上の事は聞けなかった。ただ、静雄の中でおさまりつつあった怒りの感情はどんどんと膨らんでいくばかりだった。