02.振動オン


職場に復帰したは再び渡された会社用の携帯電話を手にして帰路についていた。やはり電話がないと色々な面で不便なので持っていると安心する。

家に着いてからいつものように着替え、夕食の支度をしようとした所で携帯電話の振動音に気付いた。何かトラブルでもあったのだろうかと鞄の中を見て携帯を探すが、何かがおかしい。鞄の中からではなく別の方から振動音が聞こえている。まさかと思い、元々いた世界から持ってきていた携帯電話のある所へ行くと、着信ランプが点灯し振動している。電源は入れていなかったし、この電話はどこへ掛けても繋がらなかったはずだ、と目を疑った。ドクドクと心臓が鳴っている間も振動は続いている。一体誰からの着信なのだろうと戸惑っていると、じきに振動が終わった。恐る恐る携帯を手にして着信履歴を見て驚いた。


【母・携帯】

「嘘…。」
履歴を見るとの母親から朝にも着信が来ていた事がわかった。今朝方鳴っていた携帯は静雄のものでも会社のものでもなく、自分が元々持っていた携帯電話だったのだと気付いた。もう母親とは一生会うことも、会話することもできないと思っていた。反射的に電話を掛け直したが、コール音が長く感じる。そして母の携帯で誰か別の人物が電話を掛けてきているのではと考え出した。例えば、折原臨也とか…とそこまで考えた所でコール音が途切れて息を呑んだ。

「もしもし、お母さん…?」



「もしもし、?一か月も連絡よこさないで何やってるの?」

聞きなれた声が耳に入ってきて、目頭が熱くなった。少し苛々しているけれど、心配している声。いつも、そうやって自分の事を気にかけてくれる大事な人。紛れもなくの母親の声だった。

「ちゃんと仕事見つかったの?もう…いきなり東京行くだなんて言い出すからこっちは気が気じゃないんだから…。」
「えっ…私…私が東京行くって言ったの?」
「そうよ。一か月前にいきなり仕事辞めたー…だなんて言って、今朝やっと電話繋がったから。もう!私の事着信拒否でもしてたの!」
「ち、違うって…ごめんね、心配掛けて。えっと…仕事も住む場所も決まったから心配しないで。」

母親の発する言葉を聞きながらは混乱していた。嘘を言っているような様子ではないし、の母親は元々嘘を吐くことすらできないタイプの人間だ。だからこそは戸惑った。自分が仕事を辞めて東京に行くなんて、そんなことは絶対にしていないし、母親に言った覚えもない。それでも、親に心配を掛けてはいけないとなんとか宥める言葉だけを口にしたのだ。

「そう…それならいいんだけど…。仕事落ち着いたら顔出しに帰ってきなさいよ。」
「うん、ごめん。ありがとう。大丈夫だから。」

そう言ってからは電話を切った。大丈夫だなんて自分に言い聞かせているようなものだった。いくらなんでもおかしすぎる。自分とは別の意志で、まるで夢遊病のように動いていたのだろうか。しかし、一か月間確かにはこの世界で過ごしていた。それとも自分とそっくりな人間がそうしていたのだろうか。ドッペルゲンガーのような得体の知れない何かが。あまりにも現実離れし過ぎて上手く思考が働かない。はその場に立ったまま一か月前の事を必死に思い出したが、心当たりがまるでなかった。そして繋がらなかった携帯が突然繋がった。それが一番不可解だった。




――私が元の世界に戻ったってこと…?

ふっとその考えが思い浮かんだ時にヒヤリとした。そして自分でも知らないうちに部屋を飛び出した。携帯電話を持ったまま、隣の203号室のインターホンを鳴らした。冷や汗がどんどん出てきて止まらない。出てこない事を確認してからやっと気付いた。まだ、帰ってくる時間ではないと。そして再び部屋に戻ると今度は会社の携帯電話を取り出した。手が震えて上手く操作ができない。やっと目的の人物の名前が出ると発信ボタンを押した。先ほどのコール音と同じ様に長く感じた。元の世界に戻ったら、もう小説の誰とも会えなくなってしまうのだろうか。そしてコール音が途切れた瞬間、携帯電話をぎゅっと握り締めた。



「もしもし。」
「もしもし、静雄さんですか!?」
「…どうした?何か連絡か?」

いつもの様に電話に出た声でそれまでの焦っていた気持ちが少し落ち着いた。出てくれた、というだけで肩の力が抜けていくのがわかって息を吐いた。こうして電話を掛けるまでにした行動は無意識で、何をしているのだろうと思った。

「あ…違うんです。すみません…仕事中なのに。」
「何かあったのか?まさかまた臨也が…。」

そう言った後に “あー静雄、それ以上力入れると壊れっから”とトムの声が小さく聞こえた。

「ち、違うんです!えーと…静雄さんが帰ってきてからお話聞いてもらえませんか…?」

は電話を切ると二つの携帯電話を見た。





電話に出た時のの声の様子からして、相当動揺しているような気がした。大体、仕事中に他の用件で掛けてくるような事は今までになかった。その割には話す事を急いでいないと言うので、静雄は少し腑に落ちなかった。早く帰った方がいいと思い、仕事を終わらせてからすぐにの家に寄った。の部屋に入ったことはあったのだが、それは引っ越しの時に何度か手伝ったときのことで、それ以来入るのは初めてだった。緊張しながらもインターホンを押した。

「お疲れ様です。すみません、仕事終わりに無理言って。」
「いや、それは構わねぇけど。」
「どうぞ。」

静雄は電話の時とは打って変わって落ち着いた様子のに拍子抜けしてしまった。はといえば静雄がちゃんと自分と同じ世界にいるということがわかって安堵していた。はお茶を出してから静雄の向かいに座ると、ゆっくりと息を吸った。それは以前が新羅の家で自分の事を話す時にした動作と同じで、静雄にも何か重要な話が始まると予想がついた。


「この携帯なんですけど。」

がテーブルの上に置いた携帯電話は会社のものとは別のもので静雄には見覚えがない。

「私が前にいた世界で使っていた携帯で、誰とも繋がらなかったんですけど…さっき、母親と連絡が取れました。」
「…え、マジか。」
「はい…それで、焦って元の世界に戻ったんじゃないかって思ったら、静雄さんに電話してしまってて…。」

すみません、とは申し訳なさそうに頭を下げた。そんな時に自分へ一番最初に連絡をしてきてくれた事に何か期待せずにはいられないのだが、今はそんな事を考えている場合ではない。

「なんだか変なんです…。私だけが元に戻ったっていうのとも違うというか…。私は変わらずここにいて、私が関係していた場所や人が丸々こっちに移ってきているみたいな…。あ、あと静雄さんが帰ってくるまで時間があったので、使えなくなったキャッシュカードとかも試してみたんです。」
「使えたのか?」
「はい…普通にお金も引き出せました。あ、これで保険証とか作れますし、皆さんにお金返せますね。」
「いや、今はその事は後にしておいてもいいだろ。」

は一見すると冷静に話を進めているように見えたが、内心ではかなり混乱していることがわかった。色々と優先順位の付け方が間違っている。静雄の言葉を聞いてから、そうですね…と呟いた。は湯のみのお茶をすすって一息吐いた。



「会いてぇんなら、会いに行けばいいんじゃねぇか?」


はその言葉に動きを止めた。誰に、と言わなくても静雄が真っすぐに自分を見ていて言いたい事が伝わってきた。なぜ、わかったのだろう。たった一カ月会っていないだけでも本当に本当に長く感じた。こちらに来てから誰にも言ったことなんてなかった。家族に会いたいなんてことは。

「明日、行ってこいよ。休みの1日や2日平気だろ。…つーかむしろ社長は罪滅ぼしにお願いされたい位なんじゃねぇ?」
「なんかそれは弱みに付け込むみたいで悪いんですが…。」

仕事に対して真面目なのはわかるし、静雄はのそんな所も気に入っていた。だが、今は彼女の背中を押さなければならない時だともわかっていた。

「いいから会って来いって。」
「いいんですかね…。」
「ん。」

静雄はそう頷くとず、とお茶を飲んだ。はまだ少し戸惑っている様子だ。

「まぁ、黒岩さんに連絡しといて、明日また会社に連絡入れとけばまず問題ねぇと思うけど。実家遠いんだろ?帰るんなら泊まってくりゃいいし。」
「…わかりました。お言葉に甘えて、明日は実家に帰りますね。」

は久しぶりに会える家族の事を考えた。早く会って、きちんと直接話したい。きっと自分一人では踏み出せなかったけれど、自分の心の内まで考えてくれた静雄に笑顔を見せた。