01.それから


一体何時間眠っていたのだろうか。は自分のアパートの部屋でぼんやりとした意識のまま体を起こした。カーテンの隙間から差す光で陽が昇っている事に気付く。昨晩の事を少しずつ思い出しながら布団から出た。




臨也のマンションを後にしたと静雄はアパートへ帰る事になったが、電車もない時間だった為、タクシーで帰る事になった。乗ってからすぐに眠気が襲ってきた。薬が抜けきっていないので、後部座席の暗い空間でじっとしていると自然と瞼が重たくなってくる。そうして眠気と戦っていると静雄が口を開いた。

「明日、昼頃会社来いよ。」
「…え…私、行ってもいいんですか…?」
「お前が来るまでに何とかしとくから心配すんなよ。」
「…すみません。お手数おかけしてしまって…。」

はそう言ってから深々と頭を下げた。それからまた沈黙が続くとの頭は窓ガラスの方へ何度もコクリと下がった。今にも窓にぶつかって音を立ててしまいそうだった。

「おい…頭ぶつけるぞ。寝不足か?」
「…ちょっと眠くて。」

少し訝しげに尋ねてくる静雄に、臨也に薬を盛られたとは言えず苦笑いをしてごまかした。せっかく助けに来てもらったというのに申し訳ない気持ちでいっぱいだが、こればかりはどうにもならない。ぶつからないようにが少し中央の方へ寄ったので、静雄は少し意識してしまって自分側の窓の方を向いた。

「寝とけよ。」
「着いたら…起こして…下さ…。」

言葉の途中で切れたなと思ったら、肩に重みを感じて体がこわばった。は寝息を立てて静雄の肩に寄りかかっている。起こしてしまうのではないかと思って下手に動けない。早く着いてくれと思う反面、着いたら着いたでがっかりしてしまう自分が予想できて静雄は混乱した。



「着きましたよー。」
というドライバーの声と同時にはハッとして反射的に起き上がった。
「…あれっ?あ、す、すみません…!私、よっかかってましたか…?」
「あぁ。」

静雄は冷静を装っていたが、内心はそうではなかった。は迷惑を掛け通しだと思い、明日からお返しをしていかなくてはと心に決めた。それから社宅に着くとは自分の部屋のベットに潜り込んだのだった。


沢山眠って薬もようやく抜けたようで頭はスッキリとしている。静雄は何とかすると言っていたが、自分への容疑を晴らすとなると別の人間…要は臨也がやったことを証明するのだろうか。折原臨也がそんな事を許してくれるのだろうか。そして本当に会社に行ってもいいのだろうかと少し迷っていた。遅めの朝食を済ませ静雄が言っていた言葉を思いながら会社へと向かっていった。





会社では静雄もトムも事務員と同じ時間に出勤し、午前中から個人情報の売買の事件について動いていた。苗野が呼び出されたり、社長と話したりといつもとは違う様子に周りの社員たちも薄々は何があったのか勘づき始めていた。の容疑を晴らし、苗野が一連の事件に関わっていた事を認めた頃には昼も回っており、後はを待つだけの形となっていた。

「一応、さんには昼頃に会社に来るようにと伝えてあります。」
「あぁ…すまないね。本当に、さんは戻ってきてくれるだろうかね…。」

トムが社長と話をつけている場に静雄も同席していた。昼頃、とは伝えているがあと10分ほどで1時になろうとしている。静雄は社長室にかかった時計を見ると、トムも時間を気にしているようで静雄に目配せをした。

「ちょっと外見てきます。一人じゃ入りづらいと思うんで。」
「あぁ、頼むよ。」

静雄は社長に頭を下げると社長室を出て出口へ向かって階段を降りていった。辞めろと言われた会社に一人で来るというのはかなり勇気がいる事なのだろう。煙草に火を点けながら1時を回っても来なかったら迎えに行ったほうがいいか。と考えて歩道に出ようとした。




「あ…苗野さん。」
「あぁ……来たの?」

は会社から出てきた苗野に偶然出会った。声を掛けたが何かがいつもと違う。普段からにこにこと笑っているような優しい印象で今もその笑顔はに向けられている。だが、はりついたような笑顔で感情が読みとれない。

「あなたのおかげで私が辞める事になったわ。私は臨也さんに言われた通りにやったのに。」
「何を言って…。」

臨也の名前が出てきては直感的に嫌な予感がした。臨也が一人でやっただなんて、浅はかな考えだった。自分では動かずに、人を動かすのが折原臨也のやり方だ。の知っている苗野は自分に罪を被せるような事はしないはずで、自分のせいで苗野まで巻き込んでしまったのかと思い胸が締め付けられるような気持ちになった。

「折原さんに脅されたんですか…?弱みとか握られて」
「何言ってるの?」
「え…?」
「私があなたに消えて欲しいと思ってたから…教えてもらったのよ、色々と。」

が苗野を見ると口の端をつりあげた笑みを見せた。この笑い方は、臨也にそっくりだ。

「若くて、仕事ができて、皆からも信頼されて…私の仕事を奪いかねない…邪魔でしょうがなかった。」

は苗野が笑顔のままに発する言葉に絶句した。そしてこういう感情を向けられたのが初めてではなかった。かつて自分のいた世界で店長をやっていた時も同じ事があった。若くして店長になったの店は他の店から取り寄せを断られたり、会議ではキャリアの長い先輩からも陰口を言われていた。だが、こんなにも直接的に攻撃されたことはなかった。結局世界が変わっても、仕事が変わっても…そして臨也が背中を押さなくとも、自分は周りから疎まれる存在だと思い知らされた。



「あんたなんかここに来なきゃよかったのに。」


苗野は低く冷たい声で言い放つとの横を通り去っていった。掛けられた言葉があまりにも重すぎて、地に根を張ったように動けなくなってしまった。本当に戻ってもいいのだろうかと、自分の足元を見ながら今まで苗野が優しく仕事を教えてくれた姿を思い出すと涙が出てきそうだった。そんな風に思われていたなんて。





。」

名前を呼ばれて肩をびくりと震わせた。静雄の声だとすぐに気付いた。今のやり取りを聞かれていたのだろうか。できるなら聞いていなければいい。こんな話きっと誰が聞いたって嫌な気持ちになるだけだ。今、顔を上げたらだめだ。確実に涙が零れてしまう。はそう思うと顔を上げる事ができなかった。



「気にすんな。みんな待ってる。」

頭にポンポンと手の感触を感じると、じわりと涙が目に溜まっていくのがわかった。優しい言葉を掛けられたらもっと泣いてしまうのに。ゆっくりと顔を上げると静雄は会社の方を向いてに背を向けていた。きっと自分が泣く所を見られたくないと静雄は気づいている。いつももうだめだ、と思う時に手を差し伸べてくれる静雄に感謝して涙を拭うと、さっきまで動かなかった足が自然に前に出ていた。

「あ、あの静雄さんっ。」

階段で呼びかけて静雄が振り返るのと同時に上の方から声が聞こえた。

「きたきた、ちゃん!いや、よかったよかった。」

トムが胸を撫で下ろして階段のすぐそばで立っていた。事務室からは黒岩も出てきて中にいる人に声を掛けている。

「トムさん、ありがとうございました…昨日、私が無実だって証明して下さったみたいで…。」
「いや、いーって。つーかね、礼なら黒岩に言ってくんねぇかな?」

が黒岩の方を見ると、黒岩は心配そうにしながらもホッとした表情での方へ向き直った。

「俺が残ってたら、途中から黒岩が来てよ。心当たりがあるからっつって調べたらすぐだったんだわ。」
「……ごめんねーさん。苗野さんが今まで仕事できる子とか若い子とかいびって辞めさせちゃってたんだけど…さんには何もしてなかったから大丈夫かなーって思って。何も言わなかったんだー…。」
「いえ、そんな黒岩さんが謝ることは何もないですから!むしろ感謝してます。」

静雄とトムはそれまでなぜ事務員がこうも頻繁に辞めていくのかがわからなかったが、やっと理解ができた。きっと取り立て組の面々も知らない事実だろう。

「黒岩…それマジか。でもちゃんの前の子は違うだろ?デキ婚だっつってたじゃねぇか。」
「あれ嘘ですよー。精神的に参っちゃって体調崩し始めちゃってたからー…。」
「嘘だろ…。」

トムと黒岩の会話を聞いていた静雄は先ほどのと苗野のやり取りを思い出していた。今まで見せていた彼女とは明らかに様子が違うと、姿が見えなくても十分にわかっていた。彼女ならばやりかねない。自分が出て行くべきではないとなんとか怒りを抑えてはいたものの、苗野が女性でなければ殴りに出て行ってしまったかもしれない。

「私みたいに仕事できるわけじゃない人には何もしないしー、神経図太い人しか残っていかないっていうかー…でも、これからはきっと事務も仕事しやすい環境にはなってくると思うんだよね。」
「ありがとう…黒岩さん。」
「んーん、これからもよろしくねー!」

そう言って黒岩はににこっと笑った。黒岩はしゃべり方も見た目も若者特有のものがあるが、周りを見ることができていて人の気持ちを考えられる人だと改めて思った。自分がきっと肩身の狭い思いで戻ってきた事もすごく気に掛けてくれている言葉だった。

ざわざわとした雰囲気に気付いたのか社長までもがその場にやってきたので他の社員達が少し静かになった。社長がに近づくとも気づいて慌てて頭を下げた。

「あっ…!社長、すみません。今ご挨拶に伺おうと…。」
さん、本当に申し訳なかった。」

社員達の前で深く頭を下げた社長に、周りの皆が見入ってしまった。

「頭を上げて下さい…!あの、社長は何も…。」
「本当に、君がやったと決めつけてしまってすまなかった。さんにはまた戻ってきて欲しいんだが…こんな社長の元では嫌かな?」

困った様にに伺いを立てる社長を見て、そんなわけはないと首を振った。こうして部下が沢山いる前で自分の否を認めるなんて、人間ができていないとできない事だ。

「よろしくお願いします…!」
「あぁ、こちらこそよろしく頼むよ。」

社長が微笑むと他の社員達もよかったと声を上げたり拍手をしたりして、は自然と笑顔になった。

「さ、皆午後からもしっかり頑張ってくれよー。」

社長が手を叩くと、皆が返事をして各々の場所へと戻っていった。そしての肩にポンと手が置かれてその方を見ると静雄がいた。

「な?みんな待ってるって言っただろ?」

そう言って少し微笑んでからトムのいる出口の方へ歩いていった。先ほど言いかけて言えなかった言葉をはやっと口にした。

「静雄さん、ありがとうございます…!」

そう背中に呼びかけると静雄は手を上げて階段を降りていった。そしてはまた昨日とは違った思いで事務室に入った。絶対にこの場所で恩返しをしていくのだと強い気持ちを持って。