06.弟の言葉 切り裂き魔の被害者が出たという臨也の話を聞いてから、の心中は穏やかではなかった。静雄が大勢の人に切りつけられるというのは想像もしたくないのだが、自分で止める術が何もないということもわかっている。そう思うとこれからも物語を追っていく度に寿命が縮まるような思いをしなければならないのだろう。 帰宅しようと歩いていると、見覚えのある高級車が社宅の前に止まっていた。以前もそうだったのだが、この古びたアパートの前にこんな車が止まっているのはなんともアンバランスだ。一年ほど前と同じ様に幽が出てきたので、は静雄に用事だろうかと近づいた。 「こんばんは、さん。」 「お久しぶりですね。静雄さんなら…まだ仕事してると思うのでまだ帰ってこないと思うんですけど。」 「いえ、兄ではなく、さんに。」 「えっ?私…ですか?」 予想に反した返事がきたのでは驚いた。 「夕食は何か予定がありますか?」 「特にないです…?」 困惑して何か思いあたることはなかったかと考えながら予定を告げると、幽は車の助手席のドアを開けた。 「どうぞ。ご案内します。」 「えっご、ご飯ですか?」 「はい。」 そう言うと幽はを促す。無表情の幽からは感情が読みとれず、さりとて断る理由がないのでその通りにしてしまった。よく行くお店に行きますね、と言うと幽は車を発進させた。横顔を見ると端正な顔立ちをしており、肌もとても綺麗で思わず見入ってしまうが、素朴な疑問を投げかけた。 「あの…あとから静雄さんが来るとかですか?」 「いえ、兄さんは来ませんが、そんなに構えなくても大丈夫ですよ。」 随分前に初めて会ったときに食事を一緒にどうか、と言われたことを思い出したのだがそうでもないらしい。案内されたレストランはVIP御用達なのか、完全に個室になっておりとても静かな空間にジャズが流れている。高級感のある店内には緊張してしまい、キョロキョロと調度品などに目をやってしまう。 「急にお誘いしてしまって申し訳ありません。なので、今日はごちそうさせて下さい。」 「そ、そんな…ええと…静雄さんのこと…ですかね。」 人気アイドルが自分を誘うというより、きっと静雄の仕事の事でも聞きたいのでは、とはここに来るまでに考えていた。兄思いの弟だということは物語の中で知っていたので、は率直に尋ねてみたのだ。 「…そうですね。兄さんは職場ではどんな感じですか?」 「私は直接一緒に仕事をしているわけではないんですけど…トムさんと3人で打ち合わせをする程度で。会社にいるときは穏やかで怒ったりしないですし、揉めたりとかもないですよ。」 はあまり主観を入れ過ぎない様に、周りからどんな風に思われているのか少しずつ話していった。 「今の所では長く続けられてますからね。」 「はい…あの…幽くんって呼んでいいですか?名字で呼ぶとちょっと紛らわしいですよね。」 「構いません。今は僕のことを本名で呼ぶ人は少ないですが、そちらのほうがいいです。」 「じゃあ幽くんで。」 「さんは羽島幽平というフィルターがないんですね。芸能界に入ってから知り合う人は普通に話ができる人があまりいないので、嬉しいです。」 嬉しい、とはいいつつも全く表情が変わらずは少し面喰ってしまったが、元々感情を表に出すことが苦手な人であることを思い出し、その違和感はすぐに消えた。の知らない芸能人としての悩みもおそらくあるのだろう。そう思案していると幽は質問を続ける。 「……さん自身は兄さんのことをどう思いますか?」 こんな質問をされるとは思っておらず、は口に入れていた料理を変なタイミングで飲みこんでしまった。先ほどの答えが自分自身の答えではないというのも見抜かれている。どう思う、と聞かれて出てくる答えは一つしかないのだが、それを幽に言うわけにはと思い、少しの間考えてから言葉を口にする。 「優しくて…。」 「……。」 「…思いやりのある人だと思います。」 あとは何と表現したらいのかわからずは黙ってしまった。不器用だけれど、頼もしく、そして真っすぐで、自分が大切だと思う人に対してはとても情が厚いということも。あまりに多く語り過ぎても、と頭の中が混乱する。そうして幽と目を合わせると、無表情のまま幽が話し出した。 「……さん。」 「はい。」 「顔が真っ赤ですよ。」 「…えっ!?」 ガタッと椅子が下がるかと思うくらいはびっくりして顔を覆った。こんな表情を見せてしまってはどうしようもないと思い、言葉を選んだ意味がなくなってしまった。恥ずかしさで隠れたい気持ちになる。 「兄さんとはたまに会うんですが、さんの話をしていたので。どんな人かなと思っていたんです。兄さんの話に出てくる人は限られていますし。」 「そうですか…トムさんとかセルティさんとかですかね…。」 職場の同僚ということで話をしてくれていたのだろう。は自分が話題にされていることをなんとなく嬉しく思った。そしてはたと幽に会う前までに考えていたことを思い出した。幽は静雄と長年付き合ってきた貴重な人物だ。もう、自分が静雄のことを好きだということも知られてしまったので、は幽に話を聞きたいと思った。 「幽くんは小さい頃から静雄さんと一緒にいて、すごく心配になったりしませんか…?本当に危ないから無茶しないで欲しい、とか。死んじゃうからやめて、とか…。」 共に過ごした時間が長いからこそ聞いてみたかった。感情を表に出さないとはいえ心の中ではどのように思っていたのだろうとはそれが知りたかった。 「さんは兄さんが何か危険な目に遭うと?」 「わからないんですけどね。」 「…ないです。」 「え?」 「僕の記憶が正しければ、心配したことはないです。兄さんなら、大丈夫です。きっと。」 確信してのことなのか、とても説得力があった。その時の言葉は普段より力強く聞こえた。幽は信じているのだ。自分の兄ならばどんな事になっても無事でいてくれるということを。 「今まで、兄さんをそんなに心配してくれる人はいませんでした。」 の必死の表情から、どうにかしたいと思っていることだけは見てとれた。自分の兄を怪物だとか化け物だと言う人はそれこそ沢山いたが、今のの言葉は普通の人間に向けられる気持ちそのものだった。 「兄をよろしくお願いします。」 「いえいえ、私のほうがよろしくお願いしますというか、何もできない気がするんですけど…。」 「今まで無茶ばかりしてきたけれど、心配してくれる人がいると思うだけでも、心持ちが違うと思いますよ。」 そう言った幽の表情はおそらく傍目から見ると全く変わりないものだったのだが、には少しだけ微笑んだように見えた。そして、いつかセルティから言われた言葉を思い出していた。 『あいつだって自分を想ってくれる人がいるって知ったら絶対に嬉しいと思うはずなんだ。』 似たような言葉を静雄にとって近しい二人から聞いた。その言葉は静雄が今まで誰からも愛された事がなかったと意味しており、ずきりと胸が痛んだ。 |