03.来訪者 お金や借りていたものも返し、無事に普段通りの日常に戻った。一体いつ次の事件が起こるのか、というのが気がかりだった。これからの事の成り行きを見る為にと、セルティの紹介でダラーズにも入ったのだが、がダラーズに入る頃にはダラーズの集会も終わっていたようだった。 それからがこの世界に来てから半年が経っても、切り裂き魔の事件は一向にニュースにならないし、ダラーズの誰かが切られたということも話題にならなかった。そう考えると原作の通りに進んでいるのだろうかと予測をつけた。内心は気が気ではないものの、何事もない日々が続き、がこの世界に来てからおよそ一年が経とうとしていた。このまま何も起こらなければいいのに。そうは思うものの、そうしたときに限って変化が訪れるという事をは知っていた。半年経って何も起きなかったということは、きっと近いうちに変化が起こるのだろうと。 「ちゃん、俺と一緒に社長室に来てくんねぇかな。」 「えっ…?」 午前中、普段通り仕事をしているとトムがのデスクの前に立っており、小声で話し掛けてきた。トムは確か休みの日だったと記憶しているのになぜか職場にきている。そして更に気になるのは社長室に呼ばれているということだ。過去の記憶が蘇り、頭の中をかすめる人物がいるのだが思い直した。今回はトムも一緒にいるのだ。 はわかりました、と同じくらい小さな声で返事をするとトムの後ろについて社長室へと向かった。 ノックをしてから社長室に入ると、は社長の表情を見た。一年前、この部屋で話した時の様な緊張感ほどではないが、社長の顔がいささか困惑している様に見えた。の隣にはトムが座り、二人で社長の話を聞くような格好になった。 「さん、実はね…君に頼みがあるんだ。」 「はい…なんでしょうか。」 仕事を頼む、にしては難色を示しているような気がして、は不安な気持ちになる。社長直々の頼みなど心当たりもない。 「週に一日なんだが、他社に出向して欲しいんだ。」 「出向ですか…?どちらに行けばよろしいでしょうか?」 「新宿の、事務所。とだけでわかるかね?」 突然の単語には言葉を失ってしまった。新宿の事務所。その言葉だけで十分事態を飲み込むことができたが、今度は一体何を企んでいるのだろう。隣にいるトムも驚いたようで息を飲んで固まっている。 「あの…確認ですけど、新宿の折原さんの事務所…でしょうか。」 「そう、折原臨也のね。池袋を根城にしていた時期もあるから私もよく知っている。彼がね、ここへ交渉しに来たんだ。」 思いもよらない言葉には愕然とする。わざわざここに直接来たというのか。切り裂き魔の事件について注視しなければ、と思っていたが、まさか自分自身に関係のない変化がおとずれるとは思っていなかった。が絶句していると社長は臨也が来た時の事を話し始めた。
「それでですねぇ…業績が上がっているのはなぜかなぁ、なんて思いましてね、調べてみたら上がり始めたのと同時期に採用されている社員が一人いますよねぇ?その人をうちに貸して欲しいんですよ。週1日で結構ですので。優秀な人材を出すのは口惜しいかもしれませんが、私の所も人手が足りないですし、ぜひともノウハウを教えて頂きたい。それ相応の報酬は弾みますので。」 あくまでもビジネスの話をしに来ていると主張したいのか、仮面の様な笑顔で臨也は一方的に提案をした。実際の所、一人の功績ではない。苗野が仕事を辞めたことにより、仕事を妨害する者がいなくなり、事務のメンバーが安定して効率が良くなったというのも一因で、その功績に加え、の仕事の成果により業績は上がっている。 「その社員一人の功績ではなく、社員全員の結果だからね。」 「そう思うなら一日くらい貸して下さっても問題ないですよね?」 社長の言葉に揚げ足を取り、臨也は笑顔のままに言葉を続ける。普通の会社の人間が相手だったならば、会社の利益を考えるだけでなく、社員の事を第一に考える社長の信念に基づいて引き取ってもらうことにするのだが、残念ながら相手は情報屋である。それもとてもタチの悪い、何をしでかすのかわからないような厄介なタイプだ。個人情報を取り扱う商売柄、絶対に敵に回してはいけない存在である。 「受けられない…といったらどうなるかね?」 「そうですねぇ…まぁ、アナタの会社の持つ個人情報ならば全て持っています。とだけでも言っておきましょうか。」 臨也はそれまでの笑顔から、一瞬黒い欲望を表情に垣間見せ、目を細めた。
「脅迫めいたことを言っていたんですね、折原さんは。」 「あぁ…すまない…あまりあの情報屋と関わりを持ちたくはないんだが…。」 「…はい。」 「……。」 「…その、私が仕事を辞めたほうが会社としては被害が少ないでしょうか。」 それを聞いたトムはまたこうなってしまうのか、と珍しく怒りの感情を持ち首を振った。話をしているの表情は真剣で、どう動くのが最善策なのかを必死に導き出そうとしている。辞める、ということ自体への感情は二の次のように見えた。 「まぁ…正直な所、それが一番安全策だろう。」 「社長…!」 「わかっているよ。ただね、さんには無実の罪で仕事を辞めさせようとした過去があるし、今回の件もさんが罪を犯したわけじゃない。それに…折原臨也の言う通り、君がいなくなるのは痛手なんだよ。いきなり辞められては、仕事も回りきらんだろう。私は残ってもらいたいと思っているよ。それは君が選んでくれて構わない。」 社長はそう言葉を告げると一度大きく頷いた。トムは厄介なことになったと思うのと同時に、心配そうにのほうを見ていた。を会社から追い出すという手段が使えなかった以上、臨也は正式な手段を踏んで手中にしようとしているのだ。 は自分が存在している事が迷惑だとただただ思い続けてきたが、自分の仕事ぶりをかって、引き留めてくれた社長に感謝した。そして、この会社に戻ってきたときに決意したことを思い出した。この会社や周りの仲間に恩返しをすると決めたことを。会社に残り、この取引を断れば会社は潰れてしまうし、会社を辞めて穴を開けても迷惑を掛けてしまう。そうなると、会社に残り、なおかつ潰さない方法は一つでの中で答えなど当に決まっていた。 「…わかりました。行きます。」 「…ありがとう、さん。情けない社長で申し訳ない。出向している間に行かなくても良くなるほうに手は尽くしてみるんだが…それまではよろしく頼むよ。」 「はい…。それで…その他の社員には言わない方が良い、と。そういうことですよね。」 はトムのほうを向くと確認するように伺った。 「特に静雄には…だから俺の事も呼んだんすね…確かに静雄は臨也のことになると見境いがなくなりますからね。」 「静雄だけでなく、他の社員にはさんは“研修に行っている”という体にしておきたい…それでは無理があるだろうか。」 社長は臨也の事をここだけの話にして、仮に研修に行くならば違和感のない仕事がないかとトムに伺った。わざわざ他の社員へ話して怯えさせることもないので、そのほうが良いとトムとも同意する。 「研修だったら名目上は違和感がないと思うんすけど…研修する必要があるかっていう所ですよね。ちゃんしかわからない仕事とかってあるのか?」 「一応、システムを使うものが一つ…多分苗野さんが辞めた時、誰もわからなかったので私が手探りで引き継いだ仕事があります。それは他の人はわからないのではないかと。」 「じゃあそれだ。システム操作の為の研修でどうですかね。」 あっという間にトムがそう決めると社長も頷いて解散となった。社長室を出るとトムは顔色が真っ青になっているに気付き、休憩室で休もうと気遣った。 「大丈夫か?顔色が悪いべ。」 「そ…そうですか?頭の中は冷静なんですけどね。」 社長がの様子を見てそれ以上は聞けなかったのだろうが、トムはおそらく社長も聞きたかったことをに尋ねようと思っていた。静雄がに目をかけているのが原因で臨也が嫌がらせをしたいのだろう、とは予想はしていた。しかし、の怯え方は見ていて少し違和感があった。 「ちゃんは、なんで臨也に引き抜かれるんだ?静雄が原因か?」 「…それも、あると思います。でも、それだけじゃなくて。」 はこれ以上の話は自分の素性を話さなければならないと思っていた。そもそも異世界人であることをトムにいつかは話そうと思っていたのだ。「自分から話す時が来るかもしれない」と静雄が言っていたことで、それが今なのだろうとは話す事に決めた。 「私、もともとはこの世界の人間じゃないんです。」 「んっ…?なんだ?この世界って…。」 「最初に会った時の事、覚えてますか?もう…一年くらい前の話ですけど。夜、露西亜寿司から出たところで絡まれているのを助けてもらって…。」 「そりゃあ覚えてるさ。」 「あの時、私は別の世界からやってきたばかりで…お金もなくて、知り合いも誰もいなくて、身分も証明できなくて…本当に途方に暮れていたんです。」 は当時の不安な心境を思い出しながら語り出した。トムは作り話のような話に耳を傾けているが、作り話を話すようなタイミングではないと考え、一つ一つのことを思い起こしていた。静雄がの身分を証明できないと言っていたことや、仕事が始まってからものことを気に掛けていたことを。しかしは当初から新羅の家を尋ねているのでここに矛盾が起きていることに気付く。 「それで…この世界は私の知っている小説の中の世界なんです。だから、知っている人を尋ねて力を貸してもらったんです。」 「それが…岸谷先生か?」 「はい。それに…最初に会ったときから、トムさんのことも静雄さんのことも私は知っていました。…すみません、今まで黙っていて。」 頭を下げたの話がどんどん現実離れしており、臨也がを引き抜く話よりもこちらの話のほうがずっと驚いていた。そして、そもそも臨也の話をしていた事を思い出す。 「臨也がちゃんにこだわるのは色んな事を知っているから…か。」 「はい…でも、私の知っている小説の内容が始まると私の家族たちが戻ってきて、身分も証明されて、普通の人間になったんです。」 「…うーん…なんだかわかんねぇことだらけだな。」 「本当に、作り話みたいですよね…。でも、私が普通の人間になっても折原さんは関係ないみたいです。」 「まぁ、色々知ってるってことに変わりはねぇからなぁ…。」 の話を全く疑うこともなく聞き続けるトムは腕を組んで思案している。話を信じてくれるだけでもありがたいというのに、今までもそんな作り話のような事を目の当たりにしてきたからなのだろうか。 「ちゃんならわかってると思うけどよ、臨也にはなるべく何も言わないようにするのが得策だな。」 「はい。」 「しかし静雄に隠せるかねぇ…。」 「そ、そうですね…。」 トムは冗談めかして笑ったが、二人にはわかっていた。このことが静雄に知れたらどうなるのか、ということを。 |